説教「わたしもその中にいる」

エゼキエル書33章7~9節  マタイによる福音書18章15~20節

牧師 福井博文
主イエスの弟子となった人々の多くは、過去の罪の生活に決別し、主イエスの弟子として新しい生き方を始めました。しかし、中には肉の思いを引きずったまま信仰生活を続け、自覚しないで、隣人に被害を与えてしまうようなこともありました。
こういった場合の対応について、主イエスは次のように話されました。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」ここでは被害を受けた者は加害者に直接会い、自分が受けた被害について説明し、謝罪と償いを求めなさいと言われます。ルカによる福音書17章3節でも、主イエスは「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。」と言われました。
主イエスは弟子たちに対して、罪を見いだしたらそれを見過ごしにせず、指摘し、戒める、立ち帰らせるようにと言われました。パウロも「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(ガラテヤ6・1)と述べています。
ところで、犯された罪への指摘と戒めは、立場が上の人からなされる場合、比較的容易ですが、立場が対等であったり、下の人であったりすると容易ではありません。こじれることもあります。このためわたしたち日本人は、厄介なことに関わりたくないと考え、犯された罪に対して、しばしば傍観者になり、見て見ぬ振りをする傾向があります。被害者が受けるであろう不利益と痛みを忖度するより、むしろ自分の身を案じることを優先してしまいます。
エゼキエルは預言して言いました。「わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」(エゼキエル33・8~9)ここには罪を指摘し、戒め、立ち帰らせることの大切さが語られています。
次に、一対一でうまくいかなかったとき、仲介者を一人か二人立てることが有効であると言われます。客観的に事柄の調査がなされ、適切な弁護も行われるからです。しかしそれでもうまくいかない場合もありました。主イエスは「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」と言われました。教会とは、教会の全会衆という意味でなく、教会の指導的な立場にいる人々、信仰においても人格においても信頼されている人々ということです。
しかし残念なことに「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と言われました。とても厳しい言い方ですが、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々が言うような差別的扱いをしましょうと仰せになっているのではありません。「あなたはもう一度、一からやり直しなさい。」と言われるのです。主イエスの弟子として生きることは、自らの弱さや欠けを認め、変えられていくことでもあります。霊に導かれる生活を積み重ねて行くことが大切です。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」かつてペトロに課せられた責任が、ここで個別の教会に拡大され適用されます。つないだり、解いたりすることは、何が許されていて、許されていないかを判定することです。好むと好まざるとに関わらず、教会は神からこの責任を果たすよう求められています。
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」もし、あなたがたのうちの二人が、係争中の事柄に関し同意することができるなら、その同意は天の父から祝福を受けるといった意味です。大事なことは主にある交わりの回復です。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」十字架の贖いのみ業は、わたしのためのものであると気づかされ、その招きに与かろうと集まる者たちの集会に、復活の主はいてくださると言います。わたしたちの集会の中に復活の主がいてくださるよう祈りましょう。(9月7日 主日礼拝)