説教「一緒に集めない者は、散らす者」

聖書 創世記6・11~22節 ルカによる福音書11・14~26

福井博文
受難節第二主日礼拝を共に捧げられることを感謝いたします。主イエスは神の国の到来を告げ知らせ、神と共に歩むことをお勧めになりましたが、無理解ゆえに一部の人たちから非難を受け、十字架への苦難を歩まれました。そのことを特に心に留めて、40日の受難節の期間を過ごしたいと思います。
今日の聖書の箇所には、主イエスが口の利けない人を癒され、救いを与えられたことが記されます。主イエスがなさったことは障がいを持つ者に健康と自由を与えることでした。しかし、それ以上に、神の国がこの人の心に到達し、このときから聖霊に導かれて、神に喜ばれる生活を始めたことのほうがもっと重要でした。わたしたちは、せっかく健康と自由を与えられても、これを悪を行うことに向けては、元もこもありません。
主イエスが言われる「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、・・・戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで出かけて行き、自分より悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」という警告は単なる教えではなく、人間の罪深さと愚かさを如実に示すのです。
ところで口の利けない者の癒しは、主イエスを別の闘いと困難に導きました。一部の心ない人々が心の中で、これは悪霊の頭ベルゼブルの働きによってなされたことに違いない、と考え始めたと言います。そこで、主イエスは、悪霊の頭が悪霊を追い出したのでは、その国は成り立たない、と反論されました。人々の反応は書かれていませんが、悪意にある人たちであれば、申し合わせて演技してるのだ、と言うことも出来たでしょう。信じたくない人たちが信じることは難しいのです。
信仰を与えられたわたしたちにとって大切なのは、いつも聖霊に導かれた生活を心がけることです。心の思い、口の言葉、行いが、神に喜ばれるものであることを求めましょう。そうすれば、聖なる霊の導きの中を歩み続けることができます。ローマの信徒への手紙12章に「言い出したのです。だったことになる。しかし、主イエスの救いと癒しは、障がいを癒すだけでなく、その人を神に立ち帰らせ、神と共に歩む者にさせる。そうなれば、主イエスの救いと癒しは、聖霊の働きであって悪霊の働きではなかったことになる。人によってなされた不思議な業は、それが神によるものか、それとも、悪霊によるものかは、その実によって知られる。聖霊に導かれた人は、必ず神を愛し、隣人を愛する者になる。その人の言葉と行いを見れば誰でも見分けることができる。パウロによれな「霊を見分ける力」というものがある。わたしたちもその賜物を得られるように祈り求めよう。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」これは神の国がこの人のところにやってきたことを告げ、聖霊によって支配された生活が始まったことを知らせるみ言葉である。
聖霊に導かれる者は、・・・ローマ コリント ガラテヤの引用を見れば明らかである。聖書語句大辞典を参照。

主イエスの働きに対して「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者がいた。これに対して、主イエスは「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」
悲しいことだが、ねたみ、争いの心を持ち、自分たちに屈しない者には、常に挑戦し、自分たちの力を見せつけて、従わせようとする人々がいる。

主イエスは聖霊を与えられ、口が利けない人のいやしに向かう。ここに主イエスの悪の力との闘いが始まる。この闘いは、第一には、「しるしを求める人々の世俗性」との闘いだ。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」と記される。これは現世的な利益を常に求める人々との闘いを言う。第二は、「力の出所を怪しみ」誹謗、中傷する者との闘いだ。神の権威を認めず、自分たちの持てる力を誇示する人々がいる。
この闘いは、人間的な知恵や力によるものではない。人間的な知恵や力による闘いであれば、はじめから勝負の結果は見えている。人間の力で罪と悪の力に勝てるわけがない。神の闘いであって、神の御子と聖霊の働きを加えての総力戦である。いまやすでにその闘いは始まっている。主イエスの苦難への道のりは、神の国の王として、この世の王との闘いを示す。
この観点から考えるとき、ものが言えない者のいやしの出来事は、単なる障碍のいやしの話ではないことに気づかされる。神殿に奉仕するザカリアは者が言えなくなった(ルカ1・20)。それは神の働きによるものだった。今日の話の中に出る男は、ものが言えなかった。これは悪霊の働きによるものだった。わたしたちは、現実に生起する出来事や障碍や病を、神の手によるとか、あるいは、反対に、悪魔の手によるものだとか軽々に論じることしないでおこう。
サマリアには、人々を驚かせ、偉大なもの、神の力だと言わせる魔術師がいた(使徒8・9~13)。エジプトにはモーセと7回も技を競った魔術師がいた。これと同じように、口の利かない人をいやし、神の業だと言わせる魔術師イエスがおられたのだろうか。主イエスは、この世的な利益をもたらす魔術を人々に見せて、しるしとするつもりはなかった。むしろ、もっとも忌み嫌うべきものとして、これを提示された。
ふたつめに、主イエスは、中傷を受けた。ベルゼブルの力を使っているというのである。ベルゼブルは、ベル・ゼブルで、「君主バール」の意味である。バールは当時の地中海世界において、偶像の神々の中で、もっとも信奉者が多かった神と言われる?。そのような神々の君主ということですから、王や頭である。
ただ、この誹謗と中傷は、本来あり得ないものである。口の利けない人が癒され、現実的な幸せが訪れていた。それがサタンの働きであるはずもない。ところが、ねたみ、敵意を持つものにとっては「わき起こってくる不合理な怒り」が真実に感じられる。人々を癒し、人々から評価される主イエスが、ともかく憎たらしいのである。主イエスが、人々から喜ばれるみ業を行えば行うほど、その怒りと憎しみはますます倍増する。
主イエスは「 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われた。サタンはうち負かされ、神の支配がその人をつつみ、導き始める。より強い力によって、サタンはうち負かされたのです。主イエスは「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(10・18)と言われた。決定的な戦闘が行われ、勝利が確定したということだ。神の国の到来は、これから徐々に起こることではない。あるいは、実現するか、しないか、まだ分からない状況だと言うのではない。すでに、勝負はついたのである。
人を傷つけ、痛めつけ、遠ざける霊が聖霊と共に歩むことありえない。従って、主イエスは言われました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」わたしたちは、主イエスが言われる事柄をにわかに理解できない。否、敢えて理解しようとしないのかもしれない。わたしたちは敵と味方を区別することを好まない。曖昧にしておくことを望む。 これは、一見思いやりと優しさに満ちた態度のように見えるが、しかし、それは実は自己保身の典型的な姿であることに気づくことが必要である。こうすることで、世俗の価値観を容認し、それもまた、わたしたちに必要だと思い定めている。そこには、苦難をに甘んじる覚悟がない。真に聖霊の導きに生きるとき、そこには闘いが始まる。わたしたちが、御利益を求める信仰や、この世の力により頼むことをを拒絶することから、初めて見えてくるものがある。
利益をもたらそうとしない者への疑いと敵意と反感。この世の力と存在におもねない者への怒りと不快感を示し、力ずくでこれを従わせようとする。主イエスはこれを拒絶された。主イエスには、人々の心が透けて見えた。霊を見分ける力は、このように、揺るぎない姿勢を持つ者に与えられてくる。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
これはなんと恐ろしいことでしょう。実際にこのようなことがあるのだろうかと思う。口を利けない人が、7つの霊を持ち込めば、どうなるのか。体中に障碍が起こるのだろう。その人の霊の性質が、世俗へ逆戻りすることを意味する。これはとても恐ろしいことである。聖なる者の世界を知り、これをつまらないものであると感じる人々は、とても危険な状態に置かれている。わたしはいつも思うが、このような人々は、教会の現実を知らない方が良いと思う。
知ることでかえって、神への畏れを感じなくなる。無感覚になる。もはや悔い改めて神に立ち帰ることは不可能である。知らなかった方が良かった、ということがある。従って牧師は安易に洗礼を授けないほうが良い。洗礼は魔術ではないからだ。魔法の力に包まれて、悪質な人間が、良質な人間に生まれ変わるのではない。洗礼は、罪を示され、罪を悔い改め、主イエスに救いの恵みへの感謝を捧げつつ、神の方向に転換し、向かい始めることである。この歩みは、わたしたちの意志の働きにおいて行われる。
ここに決断が必要である。覚悟が必要である。主イエスの十字架は、正義と公平にわたしたちを導く。預言者的な生である。自分を捨て、自分の十字架を背負って歩むことを可能にする。人々から憎まれ、嫌われ、排斥される道を選ぶことが、主イエスの生涯を彩っている。それ以外の道は、真実の弟子の道でなく、欺瞞と偽りに満ちた道だ。
田中かおる先生は、熊江チエ神学生のことを、牧師に相応しくないと感じたと言います。この神学生の推薦書を書いた牧師は責任が重いと言います。わたしはある教会で上田という方から牧師資格を取りたいとの相談を受けたとき、教団の愛澤幹事に相談した。曰く、先生の推薦状はオールマイティーです。教区、教団、教師検定委員会は通さざるを得ません。従って、くれぐれも牧師資格の推薦は慎重にお願いします。そこで、わたしは礼拝に休まないで出席してください。祈祷会にも出席してください。一年間の信仰生活を見させてくださいと言いました。すると次の週に、奥さんをつれて来て、悪魔のような形相で、わたしを睨み付け、ののしり、転会願いを出して行きました。そこで推薦書は書けないので、受洗証明書だけを転会希望の教会に送付しました。
主イエスの弟子になることは、主イエスがそうであったように、憎まれ、疎まれ、迫害され、殺されることである。 この現実をしらないままで、キリスト者を全うすることはできない。

〈6:11 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。6:12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。6:13 神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。6:14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。6:15 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、6:16 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。6:17 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。6:18 わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。6:19 また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。6:20 それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。6:21 更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。〉
〈11:14 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。11:15 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、11:16 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。11:17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。11:18 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。11:19 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。11:21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。11:22 しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」〉