説教「主はわが飼い主」

聖書 エゼキエル書34章7~15節 ヨハネによる福音書10章7~18節

牧師 福井博文

主イエスの時代、ユダヤの国は、頻繁な宗教儀式に時間と金銭を費やしていました。大祭司、祭司、レビ人が祭事を担い、律法学者が、旧約聖書の解釈を基にして、諸規則にお墨付きを与えていました。この制度を支えるため民衆は収入の十分の一を宗教税として納めねばなりませんでした。すべてが宗教に関する経費とされたわけではありませんでしたが、かなりの額がこの目的に使われたと考えられています。
お金のあるところに人も集まるという諺があります。祭司、律法の教師、用具の製造と販売、供え物(動物の生け贄)の検査と販売、神殿の改修・改装及び修理等に関わる仕事をする人々が、利権を求めて集まりました。祭司たちは、神殿の運営と管理のすべて任せられ、出入り業者への許認可権を持っていました。まいない(賄賂)を受け取ることもあったようです。
このような現実の中で、主イエスは、羊飼いには悪い羊飼いと良い羊飼いがあると言われました。
良い羊飼いは酒を飲まず、盗人や強盗が来たとき、目を覚ましていて、しっかりと羊を守ります。オオカミが夜中に群をなして襲って来ても、杖で勇敢に闘って羊を守ります。反対に、悪い羊飼いは眠っていて、盗人・強盗にねらわれ、奪われても気づかないし、オオカミに襲われた時は、恐れをなし羊を残して逃げ出してしまうと言われます。
エルサレムの神殿に捧げられる動物は、傷や汚れのないものでなければなりませんでした。自前で用意したものは、しばしば不適当と判定されました。そこで人々は仕方なく、祭司によって認可された業者から割高な犠牲の供え物を購入する羽目になりました。人々は永年決められた制度の中でどうすることもできませんでした。
ヨハネ福音書の2章によりますと、主イエスはエルサレムの神殿の境内で、牛や羊や鳩を売っている者たちをご覧になり、縄で鞭を作り、羊や牛を境内から追い出され、また、両替人の金をまき散らして、その台を倒しました。そして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2・16)と言われました。主イエスは、信仰が金儲けや搾取の対象にされていることに勇気を持って怒りを示され、良い羊飼いがどのようなものであるかを示されました。
主イエスは、律法学者のことを、偽善者、白く塗られた墓と形容したこともあります。表面は純白の塗料が塗ってあり、とても美しいのですが、その腹の中は、骨や腐った肉で満ちているというのです。世俗の世界ではすべてが損得勘定でなされます。そこには神の国が実現するようにという視点も祈りもありません。利益と効率優先の無慈悲な世界です。信仰の世界にも、世俗の理論が入り込み、幅を利かし、牛耳るようなことが起こってきます。注意が必要です。
悪貨は良貨を駆逐するという諺があります。本当に良質な貨幣は、金や銀の割合が85パーセントや90パーセントです。悪い貨幣は金や銀の割合が50パーセントや60パーセントしかなく低い価値しかありません。ただ金銀の含有量がどうなのかは、見た目ではよく分からないものです。一枚の良質の貨幣と二枚の悪貨を並べて好きな方を持って行きなさいと言われれば、わたしたちはまず見た目で判断して二枚の方を持っていくでしょう。このようにして、良貨は悪貨に駆逐されていくのです。
また、雇われた羊飼いは、本気で羊を守る気概を持ちません。羊を飼う技術も持ちません。育てる知識も持ちません。その守り方も知りません。羊が求めているものが何であるかを知りません。羊を誤って死なせたり、羊を逃がしてしまったりもします。雇い人は余り役に立たないのです。雇われた人もそれなりに務めを果たそうとしますが、所詮はお金のためです。報酬の額としんどさとが割に合わなければ止めていきます。
主イエスは、本当の羊飼いは羊のために命を捨てると仰せになりました。そして、主イエスは、弟子たちと正しい信仰を求める人々を守るために、その尊い命を捧げてくださいました。主イエスはこのような仕方でわたしたちに模範を示してくださいました。もちろんわたしたちは主イエスと同じというわけには行きませんが、主イエスが十字架に向かって歩んで行かれたその御足の跡を、ほんの少しでも見倣いつつ歩んでいける者になりたいと思います。主イエスが大牧者と言われる理由はここにあるのです。(5月4日 主日礼拝)