説教「洗礼―新しい契約のしるし-」

聖書 ヨシュア記3章5~17節 ルカによる福音書3章15~22節

福井博文

ヨハネはユダヤの国で洗礼運動を起こし、多くの人々を悪い行いからの悔い改めに導きました。そこで人々はこの人こそメシア、救い主ではないかと考えました。しかし、驚いたことにヨハネは、それは自分でなく、わたしのあとから来るお方だと証言しました。それはナザレの村から出てきたイエスというお方でした。ヨハネは言います。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」ヨハネは、まことの救いは神のみ力によってなされるもので、人間的な働きかけに依らないことを知っていたのです。

19世紀、ドイツのハレ大学の組織神学と聖書学の教授を務め、高名なパウロ・ティリッヒやユリウス・シュニーヴィントを育てたマルティン・ケーラー(1835~1912年)は、「イエスの名による洗礼」がヨハネの洗礼とは全く別のもので、わたしたちを悔い改めに導くだけでなく、聖霊によって、神のみ心に適う者に変革する力を持つことを明らかにしました。

「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、『ヨハネの洗礼です』と言った。そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。』人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。」(使徒19・1b~6)

信仰者の中には、洗礼を受けていれば悪い行いをしていても、自動的にあるいは魔術的に必ず救われるはずだと考える人が時々います。しかし、そうではありません。油断していると、肉の思いが頭をもたげてきて、ついに自分の心が支配されてしまいます。そうなりますと神の国から遠ざかっていきます。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。・・・肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5・16~26)

主イエスの洗礼は「聖霊と火で」授けられるものだと言います。火は裁きを意味します。聖霊は生まれ変わりと聖化を意味します。主イエスは父なる神から聖霊を受け、今度はわたしたちに聖霊を授けてくださいます。わたしたちは、その聖霊によって生まれ変わらされ、罪から清められ、信仰から信仰へと導かれるのです。わたしたちは、自分の努力と精進で救われることはできません。そんなことを考えればますます泥沼にはまり込んでしまいます。聖霊に心を明け渡し、神さまよろしくお願いしますと感謝の祈りを捧げることが肝要です。そうすればキリストにある神の平安が与えられます。ここに、わたしたちの希望と慰めがあります。

使徒パウロは言います。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ6・3~4)

聖書で言われる契約は、この世で交わされるような双方向の契約ではありません。神からの一方的な契約です。迷いと不信仰と疑いに満ちたわたしたちに、憐れみをもって提供されたのがイエスの名による洗礼です。洗礼は魔術でもなければ、決まりでもありません。神の恵みそのものなのです。(1月11日 主日礼拝)