説教「王の婚宴に招かれる」

イザヤ25章6~10節a マタイ22章1~14節

主イエスがエルサレムの神殿の境内で民衆に教えておられたとき、祭司長や民の指導者たちが近寄って来て、何の権威でこのようなことをしているのかと問いました(マタイ21・23~27)。主イエスは質問の意図がよく分かっておられたので、すぐに応えることはなさらないで、逆に質問をされました。祭司長や民の指導者が答えられませんでしたので、主イエスはご自分も応えないと仰せになりました。このすぐあとに三つのたとえを話されました。
ふたりの息子の話、ぶどう園と農夫の話、そして、三つ目が今日の王の王子のための婚宴の話です。これらのたとえはすべて神のみ救いが、貧しさのゆえ掟を守ることができない人々にも、また、律法を教えられたことのない異邦人にも、分け与えられるという内容になっています。また同時に、神の恵み(福音)に敵対する人々は、神の裁きを受けることになるとも教えます。
ここで登場人物のことを考えてみましょう。王は神さまです。その息子のための婚宴は、神がみ子イエスのために用意される、終わりの時のいのちと喜びに溢れた晩餐会です。遣わされた家来は、教会の使徒、預言者、教師です。また家来たちに加えられた虐待は、宣べ伝える者への暴力と迫害です。
わたしたちなら王子さまの婚礼に招待されたら喜んで参加するにちがいないありません。しかし、驚いたことに多くの招待客はこれに応じませんでした。お金儲けと立身出世に忙しかったと言います。中には迷惑千万と家来に暴行し殺害する者まででました。神さまをないがしろにするお話はここまでで充分だと思うのですが、まだ、もうひとつのエピソードが付け加わっています。王さまは大変ご立腹なさり、軍隊を送ってこの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払います。この裁きの記述は、主イエスを殺害し、福音の宣教に抵抗したエルサレムの町が、紀元70年にローマ帝国に滅ぼされたことに言及したものと昔も今も考えられています。
わたしたちも、お金儲けや立身出世にかまけて、神さまからのご招待を不意にしてしまわないように気をつけなければなりません。ましてや、自分の意にそぐわないからといって、教会の宣教の働きに従事する者をいじめたり、虐待したりしないようにしましょう。主イエスの弟子として特に献身する者は、自分の利益と名誉栄達のためにやっているのでなく、神の栄光を表すためにその働きに従事しているのです。この世の価値観や尺度を教会の中に持ち込まないように気を付けましょう。
さて婚宴もたけなわの頃、王さまが宴席をまわっていますと礼服を着ていない招待客が混じっていました。意外なことに王さまはこの客を厳格に扱われ、婚宴の会場から追い出してしまいました。心優しいわたしたちは、町の通りから連れてこられたのだから無理もない。ましてや貧しい人なら婚宴にふさわしい清潔な上着を持っていなくても責めることはできないと考えます。しかし、そこはやはり王に対しての礼儀というものが必要でした。気持ちさえあれば親戚や友人からあるいは貸衣装屋さんから礼服を借りることができたにちがいありません。
王さまから要求された礼服とは、神がみずからの手でご用意くださった御子イエス・キリストの贖いの恵みを言います。何はなくても神がご用意くださった救いは、着用することができたはずでした。それさえ身に付けておれば、他は何一つ要求されません。わたしの知人の住職が「浄土真宗では、信仰告白が一致していれば、あとは自由である」と言っておられましたが、キリスト教でも同じです。主イエスへの信仰が分かっていればあとは何も求められません。
パウロは「キリストを着る」という言葉をしばしば使いました。キリストを着るとはどういうことでしょう。それはキリストの心を心として、キリストに喜ばれる生き方をすることです。アンティオキアの教会の人々は、異邦人の人々から「キリストのような人たち」と言われました。この言い方には、侮蔑が込められていたと言われますが、それとは別に、主イエスの教えと行いに一致した生活をしていた人々という意味も含まれていたように思われます。
礼服を身に付けていなかった男は、神の救い恵みに招待されたものの、その信仰生活は神の恵みに応答するものではありませんでした。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」これはとても厳しいお言葉ですが、肝に銘じておくべきことです。宗教改革者のカルヴァンは「聖化」の大切さを力説しました。キリストにつながっていることで、きよめられていくことを信じて、歩んで参りましょう。(10月12日 主日礼拝)。