説教「種を蒔く人のたとえ」

聖書 箴言3章1~8節 ルカによる福音書8章4~15節

福井博文

主イエスは、神の国は畑を耕す人が種を蒔くようなものであると言われました。ところで現代のわたしたちは、種を蒔くと聞くと、畑に畝を造ってそこに種を蒔くことを想像します。しかし、当時、人々は土地の一面にまず種を蒔き、それから土を耕したと言います。そのため、結果として蒔かれた種は、道ばたや雑草の中にも落ちることにもなりました。
道ばたに落ちた種は踏みつけられ、鳥が来て食べてしまいました。石地に落ちた種は、根がつかず枯れてしまいました。茨の中に落ちた種は頭をふさがれ伸び切ることができませんでした。その中でも良い地に蒔かれたものは、大きく成長して豊かに実をみのらせました。
蒔かれた種は神のみ言葉です。み言葉を聞いても、悪魔にたとえられる鳥に奪い取られてしまう人がいます。迫害にたとえられる太陽の熱射に枯れてしまう人がいます。この世の誘惑にたとえられる茨に成長を阻まれる人がいます。その中でも、神の助けとお守りにより、信仰が根づき、実を豊かにみのらせる人もいます。
使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリ1:18)と語りました。十字架の言葉は、わたしたちをより分けていく不思議な力をもっています。信じない者は信じませんが、信じる者には、豊かなみのりをもたらします。
わたしたちは人を救いに導こうとするとき、熱心であることに効果を期待することがあります。失敗談があります。大学に通つていた時、一時英会話クラブに所属していました。この時の英語弁論大会の暗唱テキストが「放蕩息子の譬え」でした。信仰告白をしたばかりのわたしは、クラブの会長は聖書に関心があるのだと思い、喫茶店で何時間近くも聖書の話をし、教会に誘いました。しかし、断られました。
ところが、不思議なことがありました。わたしが大学の正門前で教会の小冊子を配っていると、ある宗教団体の学生たちに囲まれて、胸ぐらを捕まれ、中止するように脅されました。それでも動じないでいるとあきらめて帰っていきました。このとき、わたしの様子を見て、話しかけて来た学生がいました。名古屋から来た人でした。彼は教会に来るようになり、やがて献身しました。もうひとり、同じ下宿に住んでいた学生に、わたしは教会案内のチラシを渡しただけで、特に熱心に勧めたわけではありませんでしたが、自分から教会に連れて行ってくれと言いました。奈良から来た学生でした。熱心に教会に通い、やがて牧師になりました。神の選びというのは不思議なものです。
教会で語られる説教は、聖霊の働きのもとで初めて神の言葉となります。福音を聞いてもこの世の常識で理解し、きれい事でこの世では生きていけないと冷ややかに反応する人がいます。御言葉は踏みつけられ、鳥に食べられ、芽を吹くことはありません。
信仰のことはよく分からないが、洗礼を受けて、適当にみんなと一緒にやっていれば、慣れてくるだろうと思い、信仰生活を始める人がいます。しかし、始めてみると聖書の学び、生き方の学びばかりで、特に親しくなるわけでもなく、楽しい行事があるわけでもない、文化や芸術を学べるわけでもない。そこで、教会の礼拝に出席しなくなる人がいます。石地に落ちた種は、芽は出たが、水気がないので枯れてしまうのです。
何年ものあいだ、熱心に順調に信仰生活を続けます。有能な人はどんどんと用いられていきます。しかし、有能なだけにこの世の誘惑が襲ってきて、この世の名誉栄達の道を選び取って教会に来なくなる人がいます。茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、覆いかぶさってしまったのです。
しかし、良い土地に落ちて、豊かに実をみのらせる人もいます。岡山の小さな教会で、幼い頃から信仰深い母親に育てられたひとりの少年がいました。東京の大学に進み、ある大きな銀行に就職しました。健康でそつのない人でしたので順調に出世しましたが、忙しさの中でとうとう教会に行かなくなりました。アメリカの支店の責任者として数年間アメリカに滞在したとき、人々が教会生活を大切にするのを見て驚き、信仰をすっかり忘れてしまっていたことに気づかされ、悔い改めて、忙しくても礼拝に出席するようになりました。日本にもどりやがて頭取になりましたが、教会生活を大切にし、最後まで怠りませんでした。この方の場合は、田舎に住む母親が、息子のために祈りを続けていたのです。親の祈りがこの世の誘惑から守ってくれたのです。神の憐れみに感謝しましょう。(2月1日 主日礼拝)