10月18日主日礼拝説教

説教「互いに愛し合いなさい」平向倫明伝道師
聖書 エレミヤ書31章31~34節、ヨハネによる福音書13章31~38節

 エレミヤ31:32に記される「この契約」とは、シナイ山で神がモーセに授けた十戒のことです。この石板に刻まれた十戒をイスラエルの民たちは守ることが出来なかったのです。それなのに、次節で「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである……わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と、同じ民ともう一度契約を結び直そうとされます。主なる神の忍耐と民への愛に驚かされます。
主がもう一度結ばれる新しい契約は、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」でした。ここの御言を良く見ますと、かつてのシナイ山契約の内容変更と言うよりは、十戒の文言を石板ではなく、人の心に記す事が変更内容だと気付かされます。しかし、十戒を人の心に書き記すとはどういうことでしょうか。
ロマ書2:13では、律法を知っているだけではだめで、律法を行う者が義とされると言われています。そして、続く14節の言葉が重要で、これを逆手に解釈すると、「人々の平和を妨害する者がいるから律法が必要になる」となります。そのままでは、「皆が平和に暮らしているのなら、それは、律法の本来目指すべき所のものが、その人たちの心の中に既にある」との解釈となり、15節で「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されている事を示しています」と締め括られます。
この事は、十戒の受け止め方にも当て嵌まります。石板の十戒によって、私たちには、「これを守りなさい」との従順も命じられています。しかし、嫌々守るのでは「従順」とは言えません。自らの心に喜びを伴って守れるようにと、十戒を心に記るしてくださったのが新しい契約です。私たちが心から掟を守りたいという姿が、ヨハネ13:34で「あなたがたに新しい掟を与える」と示され、その掟の内容が「互いに愛し合いなさい」なのです。
互いに愛し合う行為は、「命令だから仕方ない」という様な嫌々では出来ない事です。もし、心が伴っていないなら、愛し合う行為を演じたとしても、段々ストレスが溜まってきて、直ぐに爆発してしまうことでしょう。しかし、その様に爆発してしまうのが私たち人間本来の実力なのです。それだから、主イエスは、34節後半で、「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」とおっしゃり、主自らお手本をお示しくださったのです。
主の愛は、私たちの罪のために御自身の命を犠牲と為し、私たちを救わんと、十字架の苦しみを負ってサタンの誘惑と戦い抜いてくださった事に現れました。私たちは、礼拝でこの主の愛を思い起すからこそ、私たちの心に記された十戒を守ろうとし、罪の誘惑に打ち勝つ力をもいただくのです。「十戒を守ること」と「愛し合うこと」は、主イエス・キリストによって一つに結び合わされたのです。
この視点で十戒を見ていくと、第一戒「わたしの他に神があってはならない」は、主なる神の愛に応えようとすれば、自らも唯一の神を愛する者になっていくはずです。
第二戒「いかなる像を造ってはならない」は、人間の最大の偶像である貪欲との戦いです。貪欲を退けて一人の神に仕えることは、アガペーの愛がなければ出来ません。
第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」は、自己中心的になると、主の御名をみだりに唱える様になります。神を畏れ敬わない姿は、自己中心的な姿です。自分自身を本当に愛するとは、自己中心から脱却することになります。
第四戒「安息日に心を留めること」とは、礼拝を大切にすることです。ここに愛することの源があります。礼拝をお捧げすることがなくなると、貪欲と自己中心に満ちてしまうか、自己嫌悪に陥り、希望を失う事になるからです。神を礼拝することが、愛することの第一歩です。
第五戒「父母を敬え」や、第六戒「殺してはならない」や、第七戒「姦淫してはならない」、そして、第八戒「盗んではならない」は、これを守ることは、自分や隣人を愛することに直結します。
第九戒「偽証してはならない」との戒めを守るためには、何よりもまず主なる神に自分の心がいつも見られていることを知る所から始めなければなりません。主に顔を上げる事が出来ない疾しさがあるならば、自分や隣人を愛することは出来ません。まず、自分の罪を神の御前に曝け出し、主イエスを信じて赦され、晴れ晴れとした心が与えられたとき、人は初めて自分と隣人を愛することが出来るのです。
第十戒「欲してはならない」とは、羨んではならないという事です。心から相手を祝福してあげる事が出来るかどうかという問題です。自分が妬む相手を、心から祝福することは難しいのです。相手が失敗することを心のどこかで願っているような、愛する事と真反対の気持ちは人を羨むこと事から起こります。
十戒の全てを完全に守ろうとすれば、それは結局、自分や隣人を愛することにならざるを得ません。そのために、主の十字架の杭が、私たちの心に突き刺さっていて、これこそが私たちの心に刻まれている神の愛なのです。