10月25日主日礼拝説教

説教「キリストの道を歩む者」平向倫明伝道師
聖書 士師記13章15~23節、ヨハネによる福音書14章1~14節

「最後の晩餐」という言葉があります。これは、「聖餐」の原型となった晩餐のことですが、「最後の」と言うのは、イエス様が、弟子たちと一緒に食事をなさった最後の夕食であったことを表しています。
ヨハネ福音書では、13章から14章が「最後の晩餐」の場面です。本日の御言も、最後の晩餐の中で、主がお語りになった事柄ですから、それまでの食事の時とは異なる、特別な雰囲気の中での食事だったと思われます。それは、イエス様が、その晩餐の中で、突然に弟子たちの足を洗われたことからも推察出来るのではないでしょうか。

イエス様ご自身は、その夕食が最後になることを承知しておられましたが、その晩餐の席で、主は、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」とおっしゃいました。これは、13章33節の御言です。
主のこの言葉を聞いた弟子のシモン・ペトロは、13章37節で、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」とまで、言い放ったのです。
これを聞いたイエス様は、ペトロに「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とおっしゃったのでした。
もちろん、主は、ペトロの感情が高揚していたために、その様なことを言ったと分かっておられたと思います。その様に思う根拠が、本日の御言14章1節で「心を騒がせるな」とおっしゃったからです。そして、この言葉に続いて、主は、一番大切なことをおっしゃいました。それは、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じない。」であります。
間もなく、主イエスは、捕らえられて、十字架の死を遂げようとしています。弟子たちにとって、この十字架の出来事が、弟子たちの信仰を揺さ振ることになるから、主は、一番大切なことを、ここでおっしゃったのであります。これから、どんな事が起ころうとも、神を信じ、主イエス・キリストをも信じて、決して信仰を失わないようにと戒められたのです。

そして、主は、次の言葉を話されました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。14:3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
このお言葉は、「主が、どこかへ行ってしまう」と不安になった弟子たちを安心させる言葉でありました。
この言葉によって、この時の弟子たちだけでなく、現代に生きる私たちキリスト者も、とても安心させられるのではないでしょうか。

ところが、次の主の一言で、弟子たちは、また、不安になったと思われます。主は、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」であります。これを聞いたトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」と主に訴えるのです。
主が、「その道をあなたがたは知っている」とおっしゃったのに対し、トマスは、「えっ、僕はその道のことをまだ知らない」と思って、慌てたのだと思います。
天の父の家に、私たちの居る場所を用意してくださったとしても、そこがどんなに素晴らしい所だったとしても、そこに辿り着けなければ、正に「絵に描いた餅」であります。ですから、イエス様がおられる所へ、どうすれば、自分たちも行くことが出来るのか?という問題は、地上に居る者にとっては、切実な事であります。
どのように、そこへ行けばよいのかを思い悩むトマスに対して、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と、おっしゃったのでした。
その素晴らしい場所は、天の父の所にあります。そこへ行くためには、主イエス・キリストを通らなければ行けないのだとおっしゃったのです。
なぜ、イエス・キリストを通らなければ行けないのかの理由が、主イエス・キリストが道であり、真理であり、命であるからだという事なのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」との御言は、とても有名な御言だと思います。この御言葉が書かれた、壁掛けなども沢山出回っています。
しかし、主イエス・キリストが、道であり、真理であり、命であるとは、どういうことなのでしょうか?

この事柄を少し詳しく見て行きたいと思います。
「道」と言う言葉には、幾つかの意味がありますが、「イエス・キリストは、道である」とする場合、この「道」をどの意味で捉えたら良いのでしょうか。
一番分かり易いのは、物事を行うために取るべき手だて・方法としての「道」ではないでしょうか。例えば、「救われるためには、イエス・キリストを信じるしか道がない」と言う様な言い方です。そう言う意味で「わたしは、道である」というのなら、まさしくその通りであります。
しかし、本日の御言の文脈で考えますと、6節で「わたしは、道であり…」と記されている前の方の2節に、「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。」とあり、3節に「あなたたちの居場所を用意しに行く」とあり、さらに4節では、「わたしの居る所に、あなたがたも居ることになる」と言う具合に、わたしたちの行くべき目的地を明らかに示しています。
そうしますと、この「道」の意味は、ある場所から目的地までを結ぶ経路を示す「道」を表すことになるのではないでしょうか。
無事に目的地に着くためには、その目的地までの経路を知ると共に、間違わずに、その経路を通って行かねばなりません。道を逸れてしまうと言うのは、目的地に辿り着けない事を表す事になってしまいます。
イエス・キリストが道であるということは、イエス・キリストから逸れてしまったら、目的地である、父の所にある素晴らしい場所へは辿り着けないことを示しています。
また、私たち一人ひとりの人生には、様々な試練があることと思いますが、その試練が主なる神から与えられたものだとするなら、イエス・キリストの道も、平らな真っすぐな道だけとは限らず、曲がりくねっていたり、アップダウンが多かったりするかもしれません。

先ほど、手だて・方法としての「道」として、「救われるためには、イエス・キリストを信じるしか道がない」と申しましたが、これは、一つの方法として表現されていますから、この表現の中に時間の流れの要素は含まれていないのです。
しかし、目的地までの経路としての「道」は、目的地に辿り着くまで、継続して歩み続ける「道」を表現していますから、その中には、時間の流れがある訳です。
もし、一度の洗礼で救われると考えるのなら、私たちの義が完成するのは、その一瞬だけで完了してしまうことになる訳ですから、毎週、礼拝をお捧げする必要を感じることはなくなるのかもしれません。
しかし、天の目的地に向かっていると考えるならば、洗礼は、その道を歩み出すためのスタートでしかない訳です。富士山を1合目、2合目、3合目と昇るように、毎週の礼拝を積み重ねて頂上にある天の国を目指しているのが、イエス・キリストの道を歩んでいることになるのではないでしょうか。
もちろん、手だて・方法としての「救われるためには、イエス・キリストを信じるしか道がない」という考え方は間違っていません。主が示してくださる「道」は、長い道でありますから、毎週の礼拝をお捧げしながら、主イエス・キリストと共に歩む道が、イエス・キリストの道であります。もちろん、主イエス・キリストがこの地上に現臨なさることは、聖霊信仰においてなされることでありますが、聖霊信仰については、次回にさせていただきたいと思います。

次に、「わたしは、真理である」とは、どういうことでしょうか。真理とは、隠し事がないという語源的意味があります。御子は、父なる神から遣わされてこの地上へと来られた方であります。この世は、それまで隠されていた父なる神の事を、この御子によって知ることになったのです。
8節で、フィリポが、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」と言いました。これに対し、イエス様は、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」と答えられたのです。これが、「わたしは、真理である」が示す内容であると理解することが出来ます。
従いまして、御子イエス・キリストが語られる言葉は、父の言葉であり、御子が為さった御業・奇跡は、父の御力によって為されたことを示されたのです。

三番目の「わたしは、命である」については、多様な解釈が成り立つかも知れません。
最初の「道」と二番目の「真理」については、同じ14章に登場するトマスとフィリポの弟子たちの質問との関係で、解釈が可能でした。
ところが、この三番目の「命」については、14章付近に、これを解釈させてくれるような弟子は登場していません。13章37節で、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と言っていますが、主が「わたしは、命である」とおっしゃったこととの関連性を見出すことが出来ません。
この6節の「命」は、むしろヨハネ福音書全体から見えてくる「命」だと考えられます。
例えば、「わたしは、命である」と主がおっしゃる場面は、ここだけではありません。11章25節で、「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」とおっしゃっています。
また、この6節と同じ重みのある「命」は、1章4節の「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあります「命」だと考えられます。
この根拠は、単純に「永遠の命」のみが価値ある命とされているのではなく、6章33節で「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と言われている様に、この世にあっても、主イエス・キリストと関わる命は尊ばれているからです。
この「わたしは、道であり、真理であり、命である」とのお言葉は、最後の晩餐の席で語られた主の言葉であります。
この後、主イエス・キリストは十字架に架かられて、命を落としますが、3日目に復活なさって、昇天なさり、再臨にむけて準備なさっておられます。この主イエス・キリストの命は、この世から天まで貫かれた命であるように思えます。
そうしますと、この地上では肉の命、神の国へ行ったら永遠の命、という様に、区分け出来る様な命なのではなく、この地上に居ながら、主イエス・キリストを信じる信仰によって、地と天を貫く命をわたしたちは、既に与えられているのではないでしょうか。
まだ先の箇所ですが、17章2節にある主イエスのお言葉です。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」と記されているのです。
天地を貫いた命が与えられていますから、既にわたしたちは、その命で、地上にいながら、天の居場所に向かって、キリストの道を歩み始めている者たちなのではないでしょうか。
そう、信じて、この世の信仰生活を歩んでまいりたいと思います。