11月1日主日礼拝説教

説教「神が喜んでくださる贈り物」牧師 福井博文
聖書 エゼキエル書20章40~44節、フィリピの信徒への手紙4章15~18節

 パウロはフィリピの教会の人々に言いました。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」
 パウロはフィリピの町で教会を設立した後、マケドニア州でアンフィポリス、アポロニアの町を訪れ、幾つかの教会を造りました。その間、フィリピの教会の人々は、つねに金銭的かつ物質的な援助を怠りませんでした。そればかりか、マケドニア州を出て、テサロニケの町で教会を設立するときも、また教会ができた後も続けて援助してくれました。不思議なことですが、マケドニア州で設立されたアンフィポリスやアポロニアの教会からは、献金や物資の援助は一切なされませんでした。そのためパウロはフィリピの教会の人々の信仰と心の豊かさに特別な親しさと感謝の思いを抱いていたのです。
 「もののやり取りで参加した」と訳される言葉の「参加する」は動詞のコイノーネオーです。共にする、仲間になるという意味です。名詞はコイノーニアで「同志」という意味です。文字通りフィリピの教会の人々はパウロの同志となってくれたのでした。「もののやり取り」は、英語でギヴィング アンド リシーヴィングです。「与え」そして「受ける」という行為です。パウロは、このような密接な交流をことのほか喜んでいたのです。
 マケドニアと言えばかつてフィリポス二世の子であったアレキサンダー大王が多くの兵士を引き連れて、ペルシャやインド北部まで領土拡張戦争を推し進めたことで有名です。マケドニア州の人々は、この世の利益や成功に関心があっても、霊的な贈り物にはあまり興味や関心がなかったのかもしれません。しかし、フィリピの教会の人々は同じマケドニア人でも随分と心がけが違っていました。
 そこでパウロは言いました。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。」ここで「益となる」と訳される言葉はギリシャ語の「ロゴス」です。一般に、神の言葉、教えという意味に訳されますが、ここでは、理性という意味合いが強く、理解力、考慮、配慮という意味で使われています。わたしから受けたものに対して感謝のお返しとしての配慮が増し加わって豊かな実りとなることを願っています、という意味です。
 わたしたちは人に配慮した行為をなすとき、そのことでどのような利益が返ってくるかを計算づくで行うわけではありません。中には計算づくで行動する人もいるでしょう。しかし、パウロたちの伝道と牧会の働きは、金銭的な見返りを求めてのものではありませんでした。神がそうであられるように、隣人に善きものを与え続ける働きでした。その無償の愛を受けた人々が、同じように、無償の愛を人に示す者となってくれることを願っていたのです。
 教会で洗礼を受けることは、自分のために生きる人生から、人に与える人生に方向転換することです。神の恵みに感謝し、時間を割いて神を礼拝し、収入や収穫の十分の一を神さまにお返しし、人に与える者とされていくことです。この人生の一大転換は心の中で起こることで、人の目には見えません。しかし、神さまの目にははっきりと見えています。そして、人を見る目のある人にはこのことがきっと見えるにちがいありません。
 わたしたち夫婦はかつて質素な生活をしていました。しかし、いつも必要は満たされ、心は豊かでした。牧師というのは、経済的に豊かになることはありませんが、食べるものに事欠くほどに貧しくなることもありません。教会の信徒からつねに心遣いをいただいていたからです。人間にとって心のこもったものや言葉かけをいただいて生きることほど幸せなことはありません。そのことによって励まされ、またみ業に励むことができるのです。
 パウロは言いました。「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」パウロは、フィリピの教会の人たちからの贈り物を「神が喜んで受けてくださる贈り物」と言いました。パウロは自分がもらうべきものとは考えなかったのです。あくまでも神への感謝であると考えたのです。そこで神への「香ばしい香り、いけにえ」と言いました。
 これは古めかしい言い方ですが、現代において、神からいただいたものを、神にお返しすることは、どのように行えばよいのでしょう。自分の身体を火にくべ、いけにえとしてささげるのでしょうか。あるいは、動物をほふってこれを捧げるのでしょうか。主イエスは、多くの動物の犠牲より、むしろわたしたちの砕かれた心、悔いる心を神は喜ばれると仰せになります。
 そして、ご自分はその貴い命をわたしたちの救いのために用いてくださいました。このことはわたしたちにとても大切なことを知らせてくれています。人間にとって生きるとは、神の恵みに早く気づいて、感謝のこころを回復し、神を愛し、隣人を愛することに、時間、能力、金銭を用いることです。これが「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」です。
 パウロがエフェソに滞在していたときのことと言われます。フィリピの教会の人々が、一度は途切れていた献金と物資の支援を、以前のように、教会員のエパフロディトに託し、届けてくれました。このことをパウロはことのほか喜びました。それは、フィリピの教会の人々が、教会内に生じた対立関係を収束させ、落ち着きを取り戻したことを意味します。
 教会は、世界の人々にとって祝福の源泉です。神の祝福が、流れ出して行く最初の場所です。流れ出した祝福は世界の国々に行き渡り神の国が広がって行くのです。教会が祝福の源泉であるためには、礼拝と奉仕が平穏に保たれることが大切です。教会は平和と秩序を保ちながら、伝道し、奉仕し、必要な所に献金を送るのです。そうすることで教会は神の祝福の源泉であり続けるのです。
 教会は神の国そのものではありません。神の国の前味(まえあじ)と言われます。二千年前の教会で、すでに身分差別はなく、経済格差による差別もなく、民族差別もなく、男女差別もありませんでした。それは教会に集う人々に、主イエスの教えが行き渡り、神のみ心が行われるようになっていたからです。
 このような神のみ心を全世界に伝えようとしたパウロの働きに、フィリピの教会の人々は心から共感し、参画することを願ったのでした。現代においても、教会の中に生きた信仰が働いているとき、同じことが行われます。わたしたちも「神が喜んでくださる贈り物」を献げる者でありたいと思います。
(降誕前第八主日礼拝 11月1日)