11月15日主日礼拝説教

説教「三位一体の神への信仰」 平向倫明 伝道師
聖書 詩編51編12~14節、ヨハネによる福音書14章15~31節

 本日の御言、ヨハネ福音書14章15節以降の主イエス・キリストのお言葉を見てみますと、15節で「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」とおっしゃっておられ、更に21節でも、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」と同じ様な言葉が重ねられていることに気が付かれるのではないかと思います。「心から掟を守ろうとすることは、『愛すること』に辿り着く」と言うことを先月の説教で取り次いでおりますが、本日の御言においても、その事が繰り返されています。
 「十戒」の内容を心から守ろうとすると、それは、「神を愛し、自分自身を愛し、そして、自分を愛する様に隣人を愛することにならざるを得ない」という事であります。ここでは、ただ単に漠然と「愛しなさい」と言われているのではなく、律法を守る事と愛する事が重ねられています。この事は、「愛する」と言う事を実生活の中に落とし込もうとすると、それは、「十戒」を心から守ろうとする生活にならざるを得ないことを示していると言えます。普段の生活の中で、神を愛しながら、自分自身を愛し、周囲の人たちをも愛するということです。
 「自分を愛する」と聞きますと、自分を甘やかす様なイメージを持たれるでしょうか?もしそうだとしますと、それは全く逆のイメージを持つ事になります。なぜなら、本日の御言の中に登場する愛とは、「アガペーの愛」の事だからです。愛される者にではなく、愛する者に自己犠牲が伴う愛をアガペーの愛と言っています。自分を甘やかす愛は、むしろ「エロスの愛」と言えます。自己の欲求を満たそうとする愛が「エロスの愛」だからです。聖書の中には、人間たちが自分たちのために偶像の神を作り出す場面が幾つも描かれていますが、これもエロスの愛によって偶像を作り出していることになります。
 これ以外にも、例えば、男女間の恋愛は、アガペーの愛と言うよりはエロスの愛と言えるかもしれません。このように申しますと、「いいえ、わたしは、自分の恋人をアガペーの愛で愛しています」とおっしゃる方がおられるかも知れません。もし、そうだとするなら、それはキリスト者として素晴らしいことだと言えますが、アガペーの愛か、エロスの愛かを見分ける一つの方法は、エロスの愛の場合には、自分の愛が相手に受け入れられなかった場合には、その愛が途端に憎しみに変化してしまいます。その愛が大きければ大きい程、憎しみも大きくなってしまいます。その様にして、自分の思いを恋人に受け入れてもらえなかったり、恋人から裏切られたりするようなことがあった時、もし、その恋人に対して憎しみや怒りを抱くなら、それは、自分の愛がアガペーの愛ではなく、エロスの愛だったという証拠になるのです。
 主イエス・キリストは、人間を救おうとして、天からこの地上へ降りて来られました。人間を救うために、「悔い改めて私を信じなさい」と言ってくださいました。しかし、人間は、なんと、この方を十字架に架けて殺してしまったのです。この後、復活した主イエス・キリストが、自分を殺した人間に対して、憎しみや怒りを覚えて仕返ししたとすれば、主イエス・キリストの愛はエロスの愛であったという事になります。しかし、主イエス・キリストは、自分が殺されようとしているその瞬間においても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23:34)」と、天の父に、自分を殺そうとする者たちの罪を赦してくれる様にと願っておられたのです。これが、アガペーの愛であります。従って、私たちがアガペーの愛で「十戒」を守ろうとするとき、そこには、自己犠牲が伴う愛が求められているのだと理解する事が出来ます。
 この事に対し、刹那的感覚で損得を考えてしまうと、「自分が犠牲を払うなら、つまり、損をするなら、十戒を守るなんて事は真っ平御免!」と考える人が居てもおかしくないでありましょう。しかし、主イエス・キリストによる救いとは、「神の国へ迎え入れられる」という救いであります。この世だけで終わってしまう命ではなく、神の国で、神と共に永遠に生き続ける命に与ることが、キリスト教の言う救いなのです。ですから、私たち人間(キリスト者)の問題は、神の国へ迎え入れられることを信じて、この世を最後まで生き抜くことが出来るだろうか、という事であります。つまり、「神の国」を信じると言う信仰の問題であり、この信仰を保ち続けて行けるだろうかとの問題であります。
 ところが、私たち人間が、人間の力だけで信仰を保ちながら、その神の国を目指して、この世を生き抜く事には、困難が伴います。私たち一人ひとりが、自分の生活を省みれば、この「困難」につきましては、恐らく、それぞれに思い当たる節があり、ご理解頂けるのではないでしょうか。この困難とは、罪の誘惑から打ち勝つ事や、利己主義の様な自己中心的考え方から抜け出す事が、そう簡単には出来ないという困難さの事であります。この様な困難を人間の力だけでは打ち破ることが出来ないという弱さが、本来の人間の姿なのであります。
 この問題に対しては、「主イエス・キリストが、今も、この世で生きていて、12弟子を導かれた様に、私たちを導いてくださっていたなら良かったのに。」と思うかも知れません。しかし、それでは、誰が、私たちの罪の贖いとなってくださるのでしょうか。私たちの罪が赦されなければ、私たちは、神の国へ入ることは出来ません。父なる神に対し、私たちの罪の贖いとなれる方は、イエス・キリストただお一人しかおられないのです。
 凡そ2000年前に、主イエス・キリストは、私たちの罪の贖いとなってくださり、十字架の上でその命を父なる神へお捧げくださったのでした。ですから、今は、この地上にイエス・キリストは居られないのです。それでは、「一体、誰が今の私たちを神の国へと導いてくれるのか!」という問題が、本日の御言であります。
 この問題への答えが、この15節と21節に挟まれた箇所の御言です。ここには、どの様なことが語られているのでしょうか。それを一言で言えば、聖霊なる御神のことが語られています。ここでは、「聖霊」という名前ではなく、「弁護者」と呼ばれています。16節で、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」とおっしゃいました。主イエス・キリストは、「自分に代わる別の弁護者を遣わす」とおっしゃったのであります。弁護者というのは、原典では「パラクレートス」と言う言葉です。「パラ」と言うのが、「傍」という意味で、「クレートス」は、「呼ぶ」とか「招く」という意味の言葉から来ています。ですから、私たちの傍で、「こっちだよ」と招き呼ばれる方のことを「弁護者」と言っている訳です。口語訳と新改訳3版の聖書では「助け主」と訳していますが、こちらの訳語の方が分かり易いかも知れません。それは、律法を守りながら、愛し合いながら生活しなければならないと知りつつも、なかなか、それが出来ない私たちを、主イエス・キリストに代わって、助けてくださる方だからです。
 17節にこの様に記されています。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
 「この方は、真理の霊である。」とは、神の事について隠し事をしない・させない方であると言っています。神の事を正直に私たちに示すお方であり、私たちの嘘をも見破られる方であります。
 続く御言、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」とは、信仰を持たない人たちは、聖霊を知ることや理解することはない、という事です。信仰を持つ者たちは、聖霊なる御神を知ることが出来ると言っています。信仰を持つか、持たないかが、聖霊なる御神との交わりを与えられるか、与えられないかの違いなのだ、と言うことであります。
 聖霊なる御神との交わりがないと言うのは、自分の傍で、「こっちだよ」と招いてくださる方の声が聞こえないという事になります。救いの道がどこにあるのか、それを知ることはないということなのです。
 信仰を持つ者の大きな特徴は、毎週、神様を礼拝している事だと思います。礼拝の中で、聖書が朗読されて、説教が語られますが、この説教が神の言葉として語られるのは、聖霊なる御神の御力によります。また、説教を神の言葉として聴けることも、聖霊なる御神の御力によります。この聖霊の御働きによって、私たちは、神の言葉を聴き、これに導かれて、この世の罪の誘惑から打ち勝つ力をいただき、自己中心ではなく、互いに愛し合うことをも学んでいくのであります。こうして、神の国を目指して、聖霊なる御神と共に歩んでいくのです。
 天におられるはずの主イエス・キリストが、地上の教会での礼拝の中心に立っておられると言えるのも、聖霊なる御神の御業によって、主イエス・キリストの現臨が造り出されているから、私たちはその様に言い、そのことを信じる事が出来ているのであります。
 この様にしてみますと、罪人である私たちが救われて、神の国へ招き入れられるために、何よりもまず、私たち人間を愛してくださり、私たちを救いたいと思われた、父なる神の御心があって、その父の御心をご理解なさった御子イエス・キリストが、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になって、地上へ降って来られ、十字架の死を遂げられて、私たちの罪の贖いとなってくださいました。そして三日目に復活なさり、この後、昇天なさり父なる神の右に座られました。そして、ご自分に代わって、聖霊なる御神を弁護者として、この地上へ送ってくださり、私たちの内に住まう方としてくださいました。
 この聖霊なる御神が、私たちの信仰を保つために、礼拝をお与えくださり、祈りをなさせてくださり、奉仕もなさせてくださり、互いに愛し合い、イエス・キリストの体なる教会を形成する枝として教会に結び合わせてくださっておられます。
 この様にして、私たちの救いは、父・子・聖霊の三位格なる一人の御神によって完成され、整えられているのです。
 後は、御子イエス・キリストの再臨までの間に、一人でも多くの人たちが、イエス・キリストの名を信じ、この神の救いの御業を信じることが出来るように、先に召された私たちが、主イエス・キリストの福音を伝えていかなければなりません。三位一体の神が私たちを愛してくださった様に、私たちも、まだキリスト教の神をご存じない方々を愛しつつ、主の恵みを宣べ伝えてまいりたいと願うものであります。