11月22日主日礼拝説教

説教「キリストにつながる恵み」平向倫明 伝道師
聖書 詩編80編9~12節、ヨハネによる福音書15章1~17節

 ヨハネ福音書の15章前半部分はぶどうの木の譬えです。ここでは、「主イエス・キリストにつながっていなさい」が強調されます。実のならない枝は父が取り除き、実のなる枝は豊かな実がなるようにと父が手入れなさいます。しかし、この実のならない枝も実のなる枝も、どちらもぶどうの木につながっている枝です。これを私たちに置き換えれば、洗礼を受けて教会員となっているキリスト者の中に、実を結ぶ者と実を結ばない者がいるとの大変厳しい御言が語られているのです。何故、イエス・キリストにつながっているのに、実を結ぶ者と実を結ばない者がいると言うのでしょうか。
 ここを深く掘り下げるためには、まず、この「実」とは何であるかを知らなくてはなりません。手掛かりは14章の後半部分です。ここには「聖霊を与える約束」との小見出しが付けられています。聖霊なる御神が私たちと共におられ、私たちと関わってくださることによって、私たちが主イエス・キリストを愛することと主の掟を守ることとが重ね合わされて聖霊なる御神の力が示され、この流れで本日の15章へ入りました。ですから、この「実」も聖霊なる御神の働きと大きく関わっていると捉えることが出来ます。
 聖霊の働きに関しましては、ガラテヤの信徒への手紙5:22-23に「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、節制です」と記されます。イエス・キリストにつながっている「実を結ぶ枝」に実る果実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の九つの実であると分かります。イエス・キリストにつながっているのに、この様な実を実らす者と、このような実を実らすことの出来ない者がいると言われている訳です。

 このヨハネ福音書15章を読むとき、多くの人たちは、極自然に自分を「実を結ぶ枝」の側に置いてこの御言を読んでいるのではないでしょうか。逆に自分を「私は切り落とされる枝だ」と怯(おび)えながらここを読まれる方は少ないと思います。しかし、改めてガラテヤ書によって示される「聖霊の結ぶ実」が、果たして自分自身に実っているだろうかと考えてみますと、「あれ?どちらかと言えば、私は実を結ばない枝なのかも知れない」と思われることはないでしょうか。もし、その様に思われる方がおられるようでしたら、それが、先ほど「私たちに大変厳しい御言だ」と申した事柄なのです。この御言によって、キリスト者であるはずの私たち自身の信仰生活を点検させられずにはおられないからです。
 しかし、もし「自分は実を結ばない枝かもしれない。ああ、これではいけない」と心に痛みを感じるなら、それこそが「父なる神が、私と言う枝を手入れしてくださっている」という証です。なぜなら「父が手入れする」とは、良い実がなるようにと、じゃまな葉っぱを切り落として日当たりを良くするなどの手を加えることですから、葉っぱが切り落とされればそこに痛みが伴うのは当然の事だからです。
 逆に「自分が実を結ばない枝なのだったら、それならそれでいいや」とか、自分が実を結ぶ枝なのか実を結ばない枝なのかを点検しようとせずに、「ああ、面倒臭い」と放り出す様なことがあれば、その事が、自分は実を結ばない枝であることの証となってしまいます。
 個人的な事になってしまいますが、私が中学生の頃、実家にあるぶどうの木の幹にわざと深めの傷を付けた事がありました。傷を付けると直ぐに少しだけ白く濁った半透明な液体が出てきました。暫く放っておくと、傷を付けた所に柔らかいゼリー状の半透明の塊が出来ていました。「これを凝縮するとぶどうの実になるのか」と思わせるようなものでした。ぶどうの幹から枝に向かっては、随分と栄養が流れているものだなあと思ったものです。
 ヨハネ福音書の4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」とあるように、枝それ自体には実を作り出す力はありません。幹から流れてくる養分によらなければ実を結ぶことは出来ないのです。
 幹につながった枝で実を結ばない枝があったとしたら、それは「幹」が悪いのではなく、幹から流れてくる養分を「枝」がちゃんと受け取ることをしていないか、或いは、枝の中で養分の流れを詰まらせてしまうために実を結ぶことが出来ないのであり、つまりは「枝」が悪いと理解すべきであります。それほどまでに「幹」としての主イエス・キリストの救いの御業は完全なものであったのです。
 主イエス・キリストの十字架の血は、この世の全ての人のために流された尊い贖いの血でありました。主イエス・キリストの救いの御業は完全に・完璧になされたのです。しかし、その十字架の出来事を「私を罪から救ってくださった出来事であった」と人間の側で受け止める事が出来るかどうかが現代に生きる者たちの問題です。
 つまり本日の御言の問題は、主イエス・キリストに従った者たちが、主イエス・キリストの十字架の恵みを心の渇きをもって、従順に、しっかりと受け取り、これを理解し、これを心から信じることが出来ていますか、との問題なのです。

 あのイスカリオテのユダもイエス・キリストに従った弟子の一人でした。イエス・キリストという幹につながった枝の一つであるユダは、少しでも良い生活を送ることが出来る様にと、イエス・キリストに期待して従ったのです。ユダは、自分の理想を実現させるために主に従ったのです。ですから、このユダの心の中は自分の理想で満たされていたので、幹からの栄養分を受け入れる場所がなかったのです。栄養の流れが枝の中で詰まってしまったために、やがてこのユダと言う枝は枯れてしまい、イエス・キリストと言う幹から剥がれ落ちていったのでした。
 なぜこの様な事が起きたのでしょうか。5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」とあるように、人が主イエス・キリストにつながっていて、主イエス・キリストもその人につながっていると言う様に、双方向でつながっていなければならないのです。いくら主イエス・キリストが私たちとつながろうとしていたとしても、私たちが主イエス・キリストとつながろうとしなければ、主イエス・キリストとの交わりは起こらないのです。
 なぜ、その様にして人間の側から主イエス・キリストと交わろうとしない事が起こるのか。7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とあります。
 イスカリオテのユダの心の中には、主イエス・キリストの御言が無かったのです。自分の理想、自分の願いで、その心の中が満杯だったのです。もし、ユダの心の中が主イエス・キリストの言葉で満たされていたなら、ユダの望みは「自分は、少しでも豊かになりたい」とはならなかったことでしょう。

 この7節の主イエス・キリストの「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」との御言に、私たちの心も揺さぶられるのではないでしょうか。或いは、「イエス様、そんなことを約束して大丈夫なのですか?」と心配したり、「よーし、本当だな。望んだことが適わなかったら、ただじゃおかないぞ」と思い上がったりする人も出て来るかも知れません。しかし、その様に思う人の心の中は自分の欲望で満ち溢れてしまっているのです。その様な心には主イエス・キリストの御言が入り込む隙間がないのです。
 洗礼を受けてはみたものの、自分のことを優先するあまり、心も体も塞がれて礼拝に出席することがままならなくなってしまったとすれば、自ら主イエス・キリストとの交わりを絶ってしまっている訳です。礼拝に出席しなければ、主イエス・キリストの御言が私たちの心の内に宿ることはないのです。こうなってしまうと、自分の心は貪欲の住み家となってしまいます。

 先ほどお読みしましたガラテヤ書の御言は聖霊の結ぶ実の内容でした。しかし、その御言の前に、この御言があります。ガラテヤ5:19-21「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。
 肉の業は聖霊の結ぶ実よりも多い15個です。皆さんは、ご自分に当てはまると思われる事柄が幾つ数えられたでしょうか。「自分に該当するものは一つもなかった」と言える人は、恐らく誰もいないのではないでしょうか。そのように現代に生きる全てのキリスト者には、この肉の業と聖霊の結ぶ実との間で常に戦いがあるのです。
 本日の御言におきましては、私たち人間の力だけで豊かな実を結ぶことは出来ないと宣言されています。聖霊なる御神は、いつも私たちの心の中に主イエス・キリストの御言を届けようとなさっておられます。その時に私たちに出来る努力は、その聖霊なる御神の働きを邪魔しないことです。幹を離れては枝は死んでしまいます。それは、幹から枝が離れてしまうと枝の中の栄養分が直ぐに尽きてしまうからです。キリスト者も同じです。主イエス・キリストの体なる教会の礼拝から離れてしまうと、「霊の糧」という信仰への栄養が次第に尽きてしまうのです。
 そうならないように、私たちは毎週の礼拝において霊なる糧に与り続けたいのです。主イエス・キリストの御言が心の内にある人は、自分の肉の欲による実ではなく、聖霊の結ぶ実を望むことでしょう。主イエス・キリストにつながるとは礼拝につながることです。礼拝し続けることがイエス・キリストという幹につながり続けることです。主イエス・キリストはそのために十字架にお架かりになり、聖霊なる御神はそのために今も働かれておられます。私たちも、その恵みに応えていく者でありたいと願います。