11月29日主日礼拝説教

説教「主が帰って来られる」牧師 福井博文
聖書 イザヤ書2章1~5節、マタイによる福音書12章36~44節

 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」と主イエスは仰せになりました。「目を覚ましていなさい」は、ギリシャ語のグレゴレオーです。油断なく注意するという意味です。主イエスは目を覚ましていて、突然主人が帰ってきて、慌てることがないようにしなさいと教え諭されました。
 わたしたちは、キリストの教えを通して信仰を与えられ、いま主イエスに従う生活をしています。洗礼を受け、聖書の言葉に聞き、聖餐に与り、礼拝を捧げています。しかし、信仰生活が長引くと、段々と気持ちに緩みが出て、時には礼拝を休み、献金をすることを忘れ、社会における責任と務めをないがしろにすることがあります。
 また、自分が真面目に生き、正義を行っても評価されず、善を行っても悪によって報われたりするようなことを経験するとき、もう真面目に生きることを手控えよう、善を行うことにこだわらないようにしようという思いに囚われたりします。その時わたしたちの思いを支配するようになるのは、気楽に人生を楽しもうという思いです。
 かつてノアとその家族が共に箱舟を造っている間、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、嫁いだりしていました。そのとき大雨が40日40夜降り続き、大きな河川が氾濫し大洪水となり、人々は多くが命を落としました。
 現代において、津波や洪水、火山の爆発や台風被害が、神の裁きだと受け取る人はなくなりました。従ってノアの時代の洪水の話は、ひとつの教訓に満ちた例話と受け取っていただければ良いと思います。しかし、その意味するところは、わたしたち人類の生き方への警告です。日本の社会で起こっているさまざまな社会現象、他の国々で起こっている不幸な出来事を、対岸の火事と受け取り無関心を決め込むことは、居眠り状態と受け取られる可能性があります。
 きょうの聖書箇所で語られる主イエスの教えの対象はあくまでキリスト教徒です。話を国の政治や経済にまで広げることはいたしません。ただ、わたしたちキリスト教徒は報われても、報われなくても、主イエスの教えに従って、居眠りしないで目を覚まして、困難な中にある人々のために祈り支援をしていきたいと思います。
 主イエスは「きつねには穴があり、鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」(マタイ8・20)と仰せになりました。これは、主イエスの貧しさや孤独を言うのではなく、ご自分の寝食を忘れて、人々の必要のために働き続けられたことを言います。このことで知らされるのは、神は居眠りなさることなく、いつも目を覚まして、わたしたちの祈りと必要のために働き続けてくださっているということです。そうであるなら、わたしたちもまた、祈りと感謝を持って、健康の続く限り、人々のために働き続けるものでありたいと思います。
 きょうの救い主の再臨のメッセージは、眠気と誘惑に負けてしまいそうになるわたしたちへの励ましです。忍耐と奉仕、礼拝と待望、これがわたしたち信仰者の選び取るべき信仰の生活です。そして、この主イエスの約束は、同時に、神を恐れず、悪を行い、平然と生きている人々への神の怒りと裁きの警告でもあります。
 わたしたちは、神から与えられた知性と理性によって、歴史を学ぶことができる者として造られました。わたしたちは歴史を学ぶことで、同じ過ちを繰り返さない、また、同じ罪を犯さない能力をも与えられています。わたしたちは、神に似た者として造られました。過去を知り、そこからより良い未来を創造することのできる能力を与えられているのです。
 主イエスは文化人類学者や歴史学者ではありません。天文学者でも、宇宙物理学者でもありません。主イエスは何をわたしたちに語ろうとなさったのでしょう。それは、この世界の主は、あなたがた人間ではなく、父なる神ご自身であるということでした。わたしたちが傲慢にも、この世界の主は、自分たちだと考えてしまうことがあります。そこで主イエスは、ご自分が戻ってこられることを言うことで、世界の創造者たる父なる神こそが見える世界の真の主であることに気づかせようとなさったのです。
 ここでわたしたちは思考の転換をしなければなりません。自然の世界も人間の歴史も、わたしたち人間を中心にして廻っているのでなく、神を中心に廻っているのです。かつてヨーロッパの教会と王族・貴族は、太陽が地球の周りを廻っていると考えました。ところが事実はその逆でした。見た目とは反対に、地球が太陽の周りを廻っていたのです。星の観察をしてそのことに気づいたガリレオはこれを学会に発表しましたが、カトリック教会はこれを認めませんでした。この時期、教会は、世界の中心は神ではなく、人間であると思い込んでいたのです。当時の教会裁判で証言を撤回させられたガリレオは小声で「それでも地球は廻る」とつぶやきました。
 不思議に思われるかも知れませんが、わたしたちの科学的思考と合理的精神は、正しい信仰の回復によって始まります。現代の日本の多くの大学の建学精神はリベラル・アーツという言葉で言い表されます。一般に「真理を探究する精神」と解釈されます。しかし、この言葉は、本来13世紀のイタリアのボローニャ大学で始まりました。当時の大学の正課は、神学、哲学、論理学だけでした。それに対して、大学は天文学、地理学、工学、物理学といったものを取り入れるようになりました。これを神学から自由な学問という意味でリベラル・アーツ(自由な学芸)と呼んだのです。
 わたしたちは神を正しく認識することによって、物事を偏見なく客観的に見つめることができるようになりました。迷信、狂信、盲信からの決別が始まり、あらゆる学問の進歩がそこから始まったのです。わたしたちが自分を神であると思い始めるとき、破滅と終末が訪れます。しかし、傲慢を悔い改め、神の前に謙遜になるとき、神はわたしたちがもう一歩、御心に近づくことを許してくださるのです。
 主イエスが仰せになったのは「あなたがたは全知全能ではありません。」「わきまえをもちなさい。」ということでした。別の言い方で申しますと「いのちの創造者である神に対してどこまでも謙遜であれ。」ということです。今わたしたちは新型コロナウイルスによって苦しめられています。21世紀の初頭、これほど文明が発達した人類なのに、たかがウイルスごときに自由を奪われることに苛立ちを感じる者がいるかもしれません。しかし、そのウイルスもやはり神がお造りになったものです。その証拠に、コロナウイルスはイタチ、コウモリ、ヒトコブラクダ、センザンコウに寄生しても何の害も与えません。もしかすると神はわたしたちに「この世界はあなたがただけのものではありません。謙遜になりなさい。」と仰せになっているのかもしれません。
 主イエスは続けて「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と仰せになりました。
 「用意していなさい」は「準備していなさい」という意味です。この譬えは、資産家が、泥棒を警戒し、いつ入ってきても撃退できるよう準備していることの重要性を言います。しかし、主イエスが言おうとなさったのは、財産の警護ではなく、あなたがたは「準備していなさい」ということです。主イエスの到来は、わたしたちにとっては救いだけでなく、裁きのときでもあります。働きの評価、精算の時でもあります。
 このメッセージは以前、すぐにでも主イエスはこの世に戻って来られる。そして救いと裁きを行われると受け取られていました。しかし、その後、主イエスの再臨が遅くなるに従い、気を緩めることなく神のご支配に服することを促している教え、と受け取られるようになりました。いつの時代においても、どこの国においても、神のご支配は正しく行われねばなりません。それは「聖なる公同の教会」を通じて行われます。聖霊によって建てられた教会は、復活の主の姿を表しています。主イエスは教会の頭です。教師と信徒はその手と足です。
 わたしたちは、ただ神を礼拝するだけでなく、主イエスの御心を正しく知りこれを行っていかねばなりません。そこにわたしたち僕(しもべ)の役割と務めがあります。手を休めて毎日酔っ払っているようではいけません。今日からアドベントです。主の到来を待つことが始まります。わたしたちは気を引き締め、主と共に神の国の実現のために祈り続けるものとなりましょう。(待降節第一主日礼拝 11月29日)