11月8日主日礼拝説教

説教「必要なものを満たしてくださる神」牧師 福井博文
聖書 歴代誌上29章10~13節、フィリピの信徒への手紙4章19~23節

 パウロはフィリピの教会の人々に「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と語りました。「必要なものをすべて」は「不足、欠乏」という意味です。「満たしてくださいます」は「一杯にする、溢れさす」という意味です。空っぽの器に穀物が一杯になりあふれ出すようにしてくださるというのです。
 この励ましは献金をし、物資を支援してくれているフィリピの教会の人々に贈られた言葉です。神を侮り、迫害するか、あるいは教会を利用しようと近づいてくる人が多い中で、フィリピには心から主イエスの父なる神を愛し、主イエスの思いに応えたいと願う人たちがいたのです。
 パウロは同じギリシャのアカイア州にえるコリント教会には次のように語りました。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(コリントの信徒への手紙二9章7節)
 主イエスも弟子たちに次のように教えられました。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書6章38節)
 わたしの名前は福井と言います。福井の福は、お酒を入れる木の枡にお酒が並々とつがれ、あふれ出す様を言います。わたしたちはよく「神の祝福があなたがたの上にありますように」と書き送りますが、この祝福は、神がお持ちになっている豊かな富があふれ出すことを言うのです。
 また主イエスは言われました。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカによる福音書12章33~34節)わたしたちは神から受けた恵みをいつまでも自分のものにしておくことはできません。時が来るとこの世に別れを告げ、すべての物を手放さねばなりません。そこに残るものは、わたしたちの善意と愛だけです。
 現代人の心の病は「神を愛する心、神を信頼する心」を失いつつあることです。戦後は経済的に豊かになり、神がいなくても何ら困らないという恵まれた環境の中で、過剰な自信を持つようになり、反比例するようにして信仰を軽んじるようになりました。特に大きな影響をもたらしたのはドイツ・プロイセン出身の経済学者マルクスの言った「宗教は民衆のアヘンである。」という言葉でした。
 この言葉は、ヨーロッパ社会において支配的だったキリスト教への批判という側面があり、中身のない信仰者への辛辣な皮肉でもありました。宗教は信用するに足りない。信用できるのは理想的な政治制度、労働者、土地、農作物だけであるという観念が根底にあるように思えます。これを聞くと、多く与える者に多く祝福が返って来るという教えは、民衆の操縦法のひとつにすぎないとわたしたちも考えてもおかしくありません。
 しかし、それでも聖書は言います。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(コリントの信徒への手紙二8章7節)感謝の心を持つ人、献金をする人を、神は本当に守ってくださいます。神は確かに生きておられて心ある人々を守ってくださるのです。
 わたしがまだ20代のとき、兵庫県尼崎市の塚口というところにある教会の伝道師をしていました。わたしは伝道師として教会の週報造りを担当していました。毎週決まった曜日に印刷屋さんに原稿を届けていました。あるとき、その印刷屋さんが言いました。「福井さん、見てください。この方は今まで毎年クリスマス献金を5000円していました。この度は2000円になりました。このことで何が分かりますか。この人の心に何らかの変化があったのです。牧師さんになる人は、そういったことにちゃんと気づくようになっていないといけません。」と教えてくださいました。その方はキリスト教徒でなく仏教徒の方でした。ご助言に感謝しました。
 兵庫県尼崎市は関西人の町です。関西人は「お金の動きは、人の心の動きを、正確に反映する」とよく言います。自分にとって価値あると判断したものには惜しみなくお金を出します。しかし、価値がないと判断すれば僅かなお金も出し渋ります。
 主イエスも神の国についてこれと同じようなことを言われました。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカによる福音書12章33~34節)
 フィリピの教会の人々は、パウロの教えに感謝し、たえず祈り、献げ、支援しました。そこでパウロは言いました。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」
 「富」は、ギリシャ語でプルートスです。この世の物質的な富や財産のことです。「栄光」は、ギリシャ語でドクサです。もとは見解、良い評価という意味でした。それが転じて、ほまれ、栄光という意味になったのです。ですから神がお持ちになっている栄光は、威厳、尊厳、栄え、見事さです。
 神は愛を持ってこの見える世界、時間と空間の世界を造り、わたしたちに与えてくださいました。現代のドイツの哲学者エマニエル・トッドが言うように、この世界はいつまでも続くものではありません。歌劇が終わればすぐに取り壊され、消えてなくなる豪華な舞台装置のようなものです。しかし、いつかは消えて亡くなるこの見える世界が、実はわたしたち人間への神の愛の贈り物だと気づくとき、この見える世界に言い尽くせない、いとおしさが湧いてきます。
 自然も動植物も人間も文明も、すべては神の愛と知恵と力の結晶です。わたしたちへの素敵な贈り物です。ですから、わたしたちはこの世界で感謝し、生き、動き、存在するのです。そして、この神からの素敵な贈り物を隣人と共有し、次の世代に残して行くのです。
 キリスト教の教えが伝えられた当初から、主イエスの教えは、ずるがしこい人々には利用しやすいうってつけの教えと受け取られました。確かに、キリスト教徒は、従順にされた無防備な小羊かもしれません。簡単にオオカミに餌食にされてしまう存在です。そのため、牧師や長老は教会を利用しようとして入り込んで来るオオカミと命がけで戦わねばなりません。
 パウロはここで一旦、神を褒め称えつつ一連の手紙を締めくくります。「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」キリスト教の信仰の特徴は、神への頌栄ではじまり神への頌栄で終わることです。教会では人を褒めそやすことはやめましょう。神を褒め称えるだけにしましょう。
 讃美歌21にはアーメンを付けない讃美歌が多くあります。アーメンは、カトリックの司祭の謳う讃詠に会衆がアーメンと応える、ことから始まった習慣です。そこでプロテスタントでは必要ないという人もいます。しかし、讃美歌はすべて神の救いのみ業に感謝しこれを褒め称えるものです。その最後にみなが共にアーメンと言っても何らおかしくありません。アーメンは「その通りです。」「それは誠です。」という意味です。パウロはフィリピの教会の人々と共にアーメンを唱えました。わたしたちも共にアーメンと言いたいと思います。
 最後にパウロはフィリピの教会の人々にお別れの挨拶を書きました。「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。」
 パウロはフィリピの教会の人々を「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」と呼びました。パウロにとって、信仰者とはキリスト・イエスに結ばれている者のことでした。この結ばれている人たちは聖なる者と言われます。聖なるは、神の側につく者という意味です。完全無欠という意味ではありません。不完全でもかまいませんし、欠点だらけでも大丈夫です。主イエスに学び、主イエスの意にかなう生き方をしようということが重要なのです。主イエスは権力や財力を手に入れようとされませんでした。フィリピの教会の人々もそのような素朴で木訥(ぼくとつ)な生き方を喜びとしたのです。
 パウロは、一緒にいるエフェソの教会の人々のことをも聖なる者と呼びました。また皇帝の家の人たちのことも紹介しています。これらの人々は、必ずしもローマ帝国の皇帝の家族や親族のことをいうのではありません。かつて皇帝の家で皇帝に仕えていた僕たちのことを言います。そういう人たちがいまはキリスト教徒になっていることをここで知ることができます。わたしたちも、キリストにつながり、キリストのようにして生きる者でありたいと思います。
 (降誕前第七主日礼拝 2020年11月8日)