12月20日主日礼拝説教

説教「その名はインマヌエルと呼ばれる」牧師 福井博文
聖書 イザヤ書7章10~14節、マタイによる福音書1章18~25節

 あるとき主の天使がヨセフの夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 ヨセフはマリアと婚約していましたが、二人が一緒になる前に、マリアは身ごもっていることが明らかになりました。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。ヨセフがちょうどこのように考えていたとき天使が夢に現れたのです。
 ヨセフは正直で正義感の強い人でした。同時に思いやりのある人でもありました。マリアが身ごもっていることは旧約聖書の申命記22章23~24節の「戒律」に照らし合わせると、姦淫罪とされ死刑に処せられる可能性がありました。そこでヨセフは身重のマリアとひそかに離縁するのが最善と考えたのです。ところが、天使はそれを思いとどまらせました。そして父親として生まれてくる子を、愛情を持って育てるよう命じたのです。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻マリアを迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはありませんでした。そして、子が生まれた時、ヨセフは天使が命じたとおりその子をイエスと名付けました。ヨセフは天使の命令に従いました。そのことで救い主はダビデの子孫から生まれるという旧約聖書の預言は実現したのです。
 わたしたちはクリスマスに信仰深く、勇気に満ち、従順であったマリアのことをよく聞かされます。しかし、夫のヨセフも実は信仰深く思いやりに満ちた人でありました。神の救いのみ業は不信仰な夫婦から始まることはありません。それに相応しい信仰ある夫婦から始められていくのです。
 マタイは旧約の預言の言葉を引用しました。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」ヘブライ語のエルは「神」という意味です。インマヌーは「わたしたちと共に」という意味です。神が共におられるとはどういう意味でしょう。神はわたしたち人間をお造りくださると同時に、わたしたちが傲慢になって神に敵対するという恐ろしい罪からわたしたちを救う計画を立ててくださったのです。
 マタイは旧約聖書のギリシャ語版である70人訳聖書からイザヤ書7章14節を引用しましたが「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み」の箇所で「おとめ」に定冠詞が付いていることに着目し「そのおとめ」を「神の民イスラエル」と理解しました(アモス5・2,列王記下19・21、イザヤ37・22参照)。
 神の救いのご計画は人知を越える壮大なものでした。まずアブラハムを起こし神の民「イスラエル」を育ててくださいました。モーセを通し神の戒めである「十戒」を授けてくださいました。モーセの従者ヨシュアによって、カナンの先住民からの攻撃を押さえ、ダビデによって周辺諸国からの攻撃を防ぎました。こうして備えがなされた段階で、わたしたち人類を罪から救う神の御子の誕生を実現してくださったのです。
 罪からの救いは、哲学によって実現するものではありません。政治制度の確立によって実現するものでもありません。また道徳教育によって成し遂げられるものでもありません。これらはわたしたちにとって有益でありますが、わたしたち一人ひとりが変えられないことには罪からの救いは実現しません。
 罪とは神との関係性を失うことを言います。ローマの信徒への手紙で使徒パウロは言いました。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1・28)いくら言っても言うことを聞かない。それなら自分がやりたいようにやりなさい。犯したいように罪を重ねなさい。そして自分でその結果を身に受けなさい、という意味です。使徒パウロは、わたしたち人間の現実はまさにこのような状態である、と言いました。
 もう10年前に亡くなられましたがよく知られた劇作家に井上ひさしという方がおられました。『ひょっこりひょうたん島』という子ども向けのテレビ番組の脚本を書いて有名になりました。小説『吉里吉里人』はベストセラーになりました。井上さんは、幼いとき父親が亡くなり、事情があって、キリスト教の孤児院に預けられ、神父さんのお世話で育ちました。
 中学に入学するとき、神父さんが自分の着ていた黒いガウンを縫い直して生徒服を作ってくれたそうです。以後、井上さんは洗礼を受けて、キリスト教徒になり、苦労の経験の中でも、多くの作品を生み出し、生涯変わらず神さまの存在と愛を信じて生きました。
 わたしは今年の10月で72歳になりました。神戸中央メソジスト教会(現神戸栄光教会)において両親の願いにより1歳で幼児洗礼を受け、18歳で信仰告白し、これまでキリスト教徒として、また牧師として歩んで来ました。振り返ってみると想像していたとおりの平凡な人生でした。一般の大学を出て、両親や親戚が勧める東京神学大学で信仰と教会について学び、日本基督教団の牧師になり、地方の教会を転任しながら牧師の働きをさせていただきました。
 お陰様で子どもや孫たち親戚たちは、みなそれなりに幸せに歩んでいます。思い返せば、わたし自身が家族や親族の重荷になったり、足を引っ張ったりすることがなかっただけでも幸いだったと思い、神さまに感謝しています。今は頭も思うように働かなくなりましたが、天に召されるまで、神とキリストと聖霊に仕える奉仕の働きを続けたいと考えています。
 短い生涯を通じて学んだことは「感謝」の心でした。若いときは神の愛、人の思いやりを知らず、人を裁いて生きていました。しかし、歳を重ねるうちに、戦後の日本の社会、教会、善意の兄弟姉妹に支えられ幸せに生きることが許されました。使徒パウロはテサロニケの信徒への第一の手紙5章16~18節で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」と勧めました。
 近頃は、天国に入れていただける人の共通点がなんとなく分かってきました。宗教、思想、学識、身体能力、好み、性格、見栄えは違っても、感謝の心を持つ人はみんな天国に入れていただけると思うようになりました。感謝の心を持つ人は決して暴言をはいたり暴力を働いたりしません。陰謀を巡らすこともありません。誹謗中傷も行いません。自分の利益のために人を利用したり利益を独占したりしません。
 これまで教会の祈祷会でウエストミンスター信仰規準から「十戒」(十の戒め)を学んできましたが、この教えの根底にあるのは、神への感謝でした。感謝の心のある人は安息日に進んで神を礼拝します。父母を敬います。殺しません。盗みません。うそをつきません。感謝の心をもっている人は、キリストのお陰で神と和解し聖霊がその人の心に宿っています。
 わたしたちは主イエスがこの世にお生まれになったことで神のご慈愛を知らされました。神がわたしたちのために犠牲してくださることを知りました。主イエスの復活により、その神がわたしたちと共におられることを知らされました。現代では教会を通して神がわたしたちと共にいてくださることを知らされます。
 コロナ禍があります。核の脅威があります。気候変動への不安があります。経済格差への不満があります。それでも神は生きておられて、教会を通してわたしたちと共にあります。わたしたちが心すべきは神の祝福の形を壊(こわ)さないことです。際限なくわき出す欲望に心を支配され、感謝の心を失ってしまわないことです。クリスマスは、「皆で集まってキリストを礼拝する」という意味です。何に感謝するのでしょう。神の御子が人となってこの世に来てくださったことです。
 主イエスは罪を犯されませんでした。主イエスは父なる神に従いその御心を行うことを目標とされました。主イエスは富と権力を手にいれることを求めず、隣人と共に生きることを選ばれました。わたしたちもこれをお手本として生きましょう。
 主イエスがこの世に来てくださることによって、呪われた世界は、祝福された世界に変えられました。インマヌエル、神は我々と共にいてくださるのです。これを祝福と言わずして何と言うのでしょう。西暦2020年は救い主がお生まれになって2020年目ということです。わたしたちはこれまで神が共におられる歴史を生きて来ました。そしてこれからも神が共におられる歴史を生きて行きます。新しい年も祝福に満ちたものでありますように祈ります。(クリスマス礼拝 2020年12月20日)