2月の説教

説教題:「良いわざを始められた方を信頼する」
説教者:福井博文牧師
聖 書:イザヤ書43章1~7節、フィリピの信徒への手紙1章1~6節
説 教:
今日の聖書箇所は「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確認しています。」というパウロの祈りで締めくくられています。善いわざとはギリシャ語でエルゴン・アガトンです。善いは、平和な、とか、正しいという意味もあります。ですから、この善いわざは、わたしたちに平和をもたらし、正しい生活を実現してくださるものでもあるのです。
主イエスは、かつてご自分のことを善い方と言って褒めた律法学者に「善いお方は神だけです」と応え、人間に善い人はいないことを強調されました。パウロが「善い業」というのは神の救いのみ業のことです。救いのみ業とは、神とわたしたちの関係を元の平和な関係にもどしていただくことです。かつてわたしたちは神を愛し、隣人を愛して生きていました。わたしたちは「そんな簡単なことか」と考えます。しかし実はこの基本的なことが、わたしたち人間にはどうしてもできないのです。
中国の草原を旅する老人がいました。この人はヨーロッパで物理学者として名を知られた人でした。老人は草原で羊を飼っている少年に聞きました。「ねえ、石を空にむかって投げるとどうして落ちて来るのだろう。」少年は笑いながら老人に答えました。「なんだ、そんなことか。それは石が地面に落ちたがっているからだよ。」老人は静かにうなずいてその場を立ち去って行ったと言います。このように、人は造り主であるお方のところに戻ることを求めるのです。
わたしたちはかつて神を愛し、隣人を愛していました。しかし、今は神を憎み嫌っています。神は悪いお方なのでしょうか。そうではありません。とても善良で親切な方です。それなのにわたしたち人間は神を嫌っています。理由は簡単です。神さまが善いお方だからです。
善いお方は、人の命を軽んじ、人の物を盗み、異性に乱暴するような人を放置なさいません。必ず注意、指導します。そのときわたしたちは善いお方に憎しみを抱き「うるさい奴だ。」と思うのです。このようなわたしたちが神を「善いお方」と言えるようになるためには、神から「救い」を与えられ邪悪な心を変えていただかねばなりません。
ここでパウロは【キリスト・イエスの日まで】という表現を使っています。キリストの日はどのような日でしょう。それは主イエスが父なる神さまのお許しの下で、裁き主としての務めを果たされる日ということです。神がわたしたちのために準備してくださった時間と空間は、いつまでも続くわけではありません。この世界は、わたしたちが神を愛し、隣人を愛することのために造られたものです。それが正しく用いられているかを判定するために、神がわたしたちの行いを裁かれる時が来ます。
あるとき主イエスは人々にひとつのたとえを話されました。ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して、旅に出ました。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、何度も僕を農夫たちのところへ送りました。でも農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにしたり殺したりしました。主人は最後に自分の息子を送りました。でも、農夫たちはこの息子をも捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまいました。さて、このぶどう園の主人はどうするでしょう。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいありません。
ある人たちは言います。「愛の神がそんなことをできるはずがない。」と。しかし、このような人たちは、神の愛ということを取り違えています。愛とは、加害者をただし、被害者を救うことです。パウロは12弟子の筆頭ペトロが救いにおいて異邦人を差別したとき、面と向かってこれを注意しました。このとき神がパウロに信仰と勇気を与えてくださったのです。
ヘブライ人の手紙12章1~3節に記されますように、救いは、主イエスによって始められ、主イエスによって完成されます。わたしたちが、これに何かを付け加えるわけではありません。「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。」(テサロニケ二3:3)善いわざを始められた方を信じて最後まで歩んで参りましょう。
(降誕節第6主日礼拝 2月2日)

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