2020年12月27日主日礼拝説教

説教「神に属する者の生き方」 副牧師 平向倫明
聖書 エレミヤ書15章15~16節、ヨハネによる福音書15章18~27節

 ヨハネ福音書15章18節以降も、ぶどうの木の譬えの流れの中にあります。しかし、17節に「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と記されているのに、18節には、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と記され、「愛する」から「憎む」と言う真反対言葉によって、情景が一変しています。
 新約聖書の中で「愛」とか「愛する」と言う言葉が一番多く登場するのが、福音書の中では「ヨハネによる福音書」であり、手紙の中では「ヨハネの手紙一」であることを以前の説教でお伝えしましたが、「愛する」の反対語の「憎む」と言う言葉も、福音書では「ヨハネ福音書」が一番多く、手紙では「ヨハネの手紙一」が一番多く登場します。その理由が、19節の「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」であると考えられます。
 つまり、私たちを愛してくださったイエス・キリストが、私たちをこの世から選び出してくださったので、この世は私たちをも憎むのだと聖書は言っています。この様にして、神の愛が多く現れる所にこそ、この世の憎しみも湧き出て来るのだと言えます。

 20節の『僕は主人にまさりはしない』と言う言葉は、『私たち人間がイエス・キリストにまさりはしない』と解釈出来ます。これを当然の事として私たちは承知していますが、しかし、私たちは限りなくイエス・キリストに近づくことは出来るのです。
 ヨハネの手紙一3:2に「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」とあるからです。
 主イエス・キリストが、ご自身の命を犠牲にしてまで私たちを愛してくださった事に、私たちが信仰によって応えることで、私たちは限りなくイエス・キリストに似た者にされると言うことであります。
 この事を、本日のもう一つの御言のエレミヤ書によっても確認したいと思います。
15:15「あなたはご存じのはずです。主よ、わたしを思い起こし、わたしを顧み/わたしを迫害する者に復讐してください。いつまでも怒りを抑えて/わたしが取り去られるようなことが/ないようにしてください。わたしがあなたのゆえに/辱めに耐えているのを知ってください。」
15:16「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」

この16節の「御名をもって」と言うのは、「御名で」と言う意味なので、ここは、「わたしはあなたの御名で呼ばれている者です」となります。これが、私たちがイエス・キリストに似た者になると言うことです。

 ぶどうの枝として幹であるイエス・キリストに繋がった私たちも、イエス・キリストが迫害されたように迫害されることを示しているのが本日の御言であります。しかし、ここで考えたい事は、「本当に、私たちはイエス・キリストに繋がっていると言えるのか」と言うことなのです。
 聖書には、イエス・キリストに繋がった結果として、私たちも迫害されると記されているのですから、もし、イエス・キリストを迫害する者たちが、私たちの前を素通りして行って、私たちを迫害しなかったとすれば、それは、私たちはイエス・キリストに繋がってはいなかったと言えるのではないでしょうか。

 先ほどのエレミヤ書に「わたしはあなたの御名で呼ばれている者です」と言われる背景がありました。それは、聖書と聖書を読む人との関係を示しています。エレミヤ15:16に「わたしの心は喜び躍りました」とあります。私たちも、聖書を読んでおりますと、嬉しくなる御言、喜びに満たされるような御言と出会います。心が躍るような気持ちになれます。しかし、ここで言われている事は、読み手の気持ちが満足する事ではありません。16節の「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。」とは、「聖書の中に、自分自身の罪を贖ってくださる主イエス・キリストを見出したとき、私はそれを腑に落ちる様にむさぼり読みました」と言うことであり、続く「あなたの御言葉がわたしのものとなり」ということは、「信仰によって読み手が主イエス・キリストと一体となる」ことを示しています。ここでは、聖書に見出される御心によって、自分自身がイエス・キリストの名で呼ばれる者になると言うことが示されています。

 本日の交読詩編箇所119編では、聖書と私たちの関係が示されていました。ここには聖書のことをいろいろな言い方で表しています。例えば、119編153節の「あなたの律法」とは聖書のことです。154節の「仰せによって」と言うことも聖書に記された神の言を示します。158節の「仰せ」もこれと同じです。155節では「あなたの掟」が聖書の事ですし、156節の「あなたの憐れみ」も聖書に記されています。157節の「わたしはあなたの定めから離れません」と訳された言葉は、「わたしはあなたの証を曲げて解釈しません」と言うことです。聖書には、証が記されていますが、それを曲解するようなことはしませんと宣言しています。159節は「あなたの命令」が聖書のことです。
 そして160節の「頭(かしら)」と訳された言葉には「全て」と言う意味もありますから、ここでは「御言葉の全てはまことです」と告白していて、聖書に対する全幅の信頼を言い表しています。これは、私たちが信仰を持つようになるためにはとても大切なことです。この様にして聖書を読む事を真似て行かねばならないと思います。
 しかしながら、その様にして聖書を読むだけでは、まだ、足りないのです。聖書に親しみ、聖書から神の御言を聴き、神の愛を知り、心の中でイエス・キリストを信じたとしても、まだ足りないものがあるのです。主イエス・キリストと一体となるために、あと一歩踏み出さなければならない事柄が、公に自分の口で信仰を言い表すということです。
 もし、私たちが、沢山聖書を読み、イエス・キリストのことを良く知り、イエス・キリストを心から信じたとしても、イエス・キリストを迫害する者が、私たちの目の前を素通りしていったとすれば、どうでしょうか。それは、私たちがイエス・キリストに似た者として見えていないという証拠になるのではないでしょうか。
 公に、「私は主イエス・キリストを信じています」と宣言しなければ、その人の心に秘められた信仰は、誰にも知られずに終わってしまうのです。確かに父なる神様には、その人の心が見えるのかも知れませんが、主イエス・キリストと共に、迫害する者と向き合う関係には入れないのです。
 公に自分の信仰を口に出して表すからこそ、迫害者たちから、「お前はキリスト者だ」と指を指される事になり、その事がイエス・キリストの名で呼ばれると言う事なのであり、イエス・キリストに似た者として見られることになるのです。ローマ書10:10に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」とある通りなのです。
 心でどれだけ信じたとしても、自分の口から「イエス・キリストは私の救い主、わたしの神だ」と公に告白しなければ、迫害する者たちからも父なる神からも、イエス・キリストに似た者としては見られることはないのです。それだから、洗礼(バプテスマ)は大切な事柄として聖礼典(サクラメント)に定められているのであります。

 この世で「迫害される」と聞きますと、何か争いが起こっているかの様であります。それだから揉め事を嫌って平和的に解決しようとして何も言わずに黙ってしまうのかも知れません。しかし、この迫害が起きるのは、ヨハネ15章21節には「わたしをお遣わしになった方(父なる神)を知らないからである」と記されています。クリスチャン人口の少ない日本では、このケースが多いと思われます。父なる神を知らない人たちが、キリスト教を誤解してしまうというケースです。キリスト教が誤解されないように、私たちがこの世に向かって、神の恵み、神の愛、主イエス・キリストの十字架による救いのことを伝えて行かねばなりません。もし、その事によって迫害に遭うとき、私たちは、イエス・キリストの名で呼ばれる者となるのであります。
 神の愛が、私たちによってこの世に表されるために、公にイエス・キリストを救い主と告白する洗礼が必要であり、これが、主イエス・キリストと共に歩む第一歩なのです。この歩み方が、この世に属する者ではなく、神に属する者の生き方なのです。