2021年1月17日主日礼拝説教

説教題 「心の貧しい人々は幸いである」 牧師 福井博文
聖書 イザヤ57章14~21節、マタイによる福音書5章3節

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」山上の説教におけるこの主イエスの語りかけを聞くとき、わたしたちの心に大きな感動と喜びが与えられます。そしてわたしたちも天の国に与ることが許されるのだと希望が湧いてきます。天の国は大空の彼方にあるのではなく神がおいでになるところすべて天の国という意味です。また天の国は来世においてやっと入れて戴ける場所という意味ではなく今生きているこの世界にも存在するというのです。
 先週、わたしは山上の説教を理解するに際して、その前知識としてダニエル書に代表される黙示文学とそれを補完するコヘレトの言葉の意味について申し上げました。紀元前160年頃、預言者ダニエルは、この世の終わり、神の裁きと神の支配、が行われる時が間近に迫っていると述べました。多くの人々はこれに過度に共鳴し、神の奇跡や来世に期待致しました。
 しかし、コヘレトはこれを修正して神の救いは、神が愛を持ってお造りになったこの見える世界、現実の世界でこそ、実現されうるものであるとしたのです。主イエスは、宣教を開始される前、すでにこのダニエル書もコヘレトの言葉もご存じで、そこで語られる神の言葉を正しく理解しておられました。
 主イエスが宣教を開始され、山上で説教を語り始められたとき、先の神の約束が見事に調和された形で、群衆と弟子たちに与えられたのです。「天の国はその人たちのものである。」と主イエスが語られたとき「今は救いの時」「今は救いの日」であると言われたのです。主イエスが語り始められると同時に、神の救いと神の支配がすでに始まっていると宣言されたのです。
 主イエスはこの天の国の始まりとその完成までの期間に祈るべき祈りを弟子たちに教えてくださいました。それがマタイによる福音書の6章9~13節の主の祈りです。そこでわたしたちは祈ります。「天にまします我らの父よ。御名が崇められますように。御国が来ますように。」と。このとき天の国はすでにわたしたちのものとなっています。そしてその中で生かされながら、完成される日を待つのです。
 次ぎに主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と言われました。「幸いである」は、ギリシャ語のマカリオスです。おごそかな祝福の言葉です。その意味は「彼らが幸せでありますように」とか「彼らは幸福だと褒め称えられるべきです」といった意味です。従って、ここには「キリスト者であることの喜び」「キリストに従うことの喜び」が表現されています。
 わたしたち人間の世界は、神への背きのため、不公平、不正、不条理に満ちています。現実はわたしたちに対して必ずしも親切ではありません。病、障がい、貧困、争いも蔓延しています。このような変えようのない現実の中でわたしたちは何を喜ぶことができるのでしょう。そこには祈りと言うより絶望とうめきに似た神への叫びがあるのみです。
 主イエスはこのような現実の中で弟子たちと群衆に語り掛けられました。「心の貧しい人々は、幸いである。」語り掛けられた「心の貧しい人々」とはどういった人々でしょう。「貧しい人々」はギリシャ語でプトーコスです。「この世的に恵まれていない人々」「経済的にゆとりのない人々」のこと言います。しかし、マタイはこれに「心の」という修飾語を付けました。「心」はギリシャ語でプニューマトスです。これは「霊」という意味です。従って、「心の貧しい人々」とは、霊におけるその人の神に対する態度のことを言います。そこで「霊において神に対する態度が貧しい人々」ということになります。
 これは「宗教的な理由から貧しくなった人々」のことや「心が元気でない、心が意気消沈している人々」のことではありません。そうではなく「神の恩恵に謙遜に依存している人々」のことです。主イエスは貧しさが幸せをもたらすと仰せになっていません。なぜなら貧しさはしばしば神の戒めに対する不従順を生み出します。箴言30章8~9節には次のように書かれています。「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」
 豊かさがわたしたちを信仰深くすることもありません。申命記8章11~14a節には次のように書かれています。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖(ふ)え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」
 「心の貧しい人々」と言われる「神の恩恵に謙遜に依存している人々」について預言者イザヤはイザヤ書57章15節で次のように言っています。本日朗読いただいた旧約聖書の箇所です。「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
 また詩編記者は詩編51編17~19節で次のように謳います。「主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」
 しかし、信仰によるこのような生活は、決して簡単ではありません。貧しいゆえに、勢力がなく、人々に踏みつけられることがあります。自分をなくしてしまうことを強いられます。自分を空しくすることは生やさしいことでできることではありません。それでも心の貧しい生活に近づくことができる道がただ一つだけあります。それは主イエスの歩まれた道をたどることです。
 心を貧しくすることについて、宗教改革者のルターは興味深いことを言いました。ルターは山上の祝福の説教を十戒になぞらえ、心の貧しい人々とは第一戒のことを思うべきであると言います。第一戒は、「わたしをおいてはかに神があってはならない。」です。心の貧しい者とは、いかなる偶像も拝まず、ただ、神をのみ拝む者のことであると言うのです。神をのみ神とする生活、ここに祝福された姿があると言います。
 わたしたちは今すでに神の救いと神のご支配に入れていただいています。感謝をもってこの恵みの内を歩んで参りましょう。(降誕節第4主日・公現後第2主日礼拝 2021年1月17日)