2021年1月10日主日礼拝説教

説教「イエスは口を開き教えられた」 牧師 福井博文
聖書 出エジプト記20章1~12節、マタイによる福音書5章1~12節

 山上の説教は多くの人々に愛されています。美しい道徳だと思われているからです。しかし、山上の説教は単なる道徳ではありません。神を信頼して生きる者のしあわせを語っているのです。山上の説教は信仰をもっている人のために語られました。信仰をもつ人とはどのような人のことでしょう。キリストに出会い、自分の罪を悔い改め、キリストに従うようになった人のことです。
 世の中には謙遜な人、傲慢な人、中間の人がいます。傲慢な人は、自分の力で、神のみこころを行うことができると考えています。しかし主イエスは弟子たちに、自分の力で神のみこころにかなう人間になろうとせず、神の助けによって、神に喜ばれる人になれと教えられました。主イエスはこれまでの預言者と同じように山上の説教で十戒について教えられました。しかし、モーセのようにではなく、神の子、救い主のように教えられました。
 出エジプト記では十戒の前文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト20・2)が取り上げられ神の恵みの先行が強調されました。同じように主イエスは山上の説教の前提として「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28~30)と仰せになり神の戒めに神の恵みが先行することを強調されました。
 主イエスは山上の説教で戒めを語っておられるようで実は福音を語っておられるのです。主イエスはわたしたちに先だって、神への服従の具体的な姿を見せてくださいました。ですからわたしたちはそれを真似るだけです。御足の跡に従うことはとてもたやすいのです。
 マタイは福音書の初めに「山上の説教」を置き、最後に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28・19~20a)の御言葉を置きました。こうして山上の説教が実は大宣教命令の先取りでもあると言います。
 これらの箇所では「山」というギリシャ語に定冠詞が付けられています。これは「その山」という意味です。モーセが十戒を教えた山と主イエスが教えられた山です。ただ律法の決定的解釈はまさに主イエスによってなされました。主イエスは律法を廃止するためでなく、完成するためにおいでになったのです(5・17参照)。
 NHK「こころの時代―宗教と人生―」という番組で旧約聖書のコヘレトの言葉が取り上げられています。東京神学大学の小友聡教授が解説しています。神はユダヤの民にモーセを通して戒めを与え、預言者を遣わされました。しかしユダヤの民は聞き従いませんでした。そのため国に平和が訪れることはなく困難が続きました。そこで神は預言者ダニエルを遣わされ紀元前160年頃に、この世の終わり(終末)を告げ、神の裁きと救いが近いこと示唆されました(黙示文学)。
 人々はこれを支持し現実逃避的に神の救いと奇跡を待ち望むようになりました。そこで、コヘレトは紀元前150年頃に「空の空、一切は空である。」(口語訳、聖書協会共同訳)と述べて、この世ではすべてのものが変化し、不完全で、思うようにならないが、それでも命(いのち)を受けたことに感謝し、信仰をもって忍耐強く今というときを「生きよ」と言います。コヘレトは、ヘブライ語で、語りかけるために「集会を開く人」という意味です。コヘレトは言います。「何事にも時があり、・・」(コヘレト3・1参照)。「時がある」とは、神や人や自然との出会いの大切さを言います。
 主イエスはこのような思想的背景に配慮しつつ、山上の説教でわたしたちに語り掛けてくださいました。この世の出来事は常に定まることがありません。しかし、わたしたちが経験したことは決して無駄になりません。世界は神の愛と出会いに満ちているのです。
(降誕節第3主日・公現後第1主日礼拝 1月10日)