2021年1月24日主日礼拝説教

説教 「悲しみを喜びに変える信仰」平向倫明 副牧師
聖書 ネヘミヤ記8章9~10節、ヨハネによる福音書16章16~24節

 4つの福音書の中で“霊”という文字が一番少ないのがヨハネ福音書なのですが、それにも関わらず、この福音書の中には、「聖霊信仰」というものが通奏低音の様に流れているといえます。本日のヨハネ福音書16章16~24節も、“霊”という文字は一度も登場しないのですが、聖霊信仰によらなければこの箇所を理解出来ないといえます。

 ヨハネ福音書16章の17節以降には、16節で主がおっしゃった「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」の意味を理解出来ずに困惑している弟子たちの様子が描かれます。
 この「しばらくするとあなたがたはもうわたしを見なくなる」というのは、間もなく、主が十字架にお架かりになって死なれ、墓に葬られることを示していて、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」というのは、墓に葬られてから三日目に復活なさり、弟子たちの前に再び主がお姿を現すことを示していますが、主ご自身の上に間もなく起こる出来事を、主ご自身が預言しておられたのです。
 しかし、主のおっしゃり方は、「十字架の死」とか「人類の罪の贖いの死」というその出来事の意味を表す言葉を用いる事はなさらず、弟子たちに対し、主ご自身が見えるか見えないか、というその出来事の現象をシンプルに語られただけであったのです。
 そのためか、それを聞いた弟子たちは、主がおっしゃる意味が分からず不安になってしまい、「こういう事だろうか、ああいう事だろうか」と互いに論じ合ったのです。

 本日の御言も、13章から続いている最後の晩餐の席上での一場面です。弟子たちは、14章22節で主イエスに一言質問した後、本日の御言の箇所まで何も発言していないのです。それだからと言って、弟子たちは、その間の主の教えの内容を全て理解しながら聞いていたというのではありませんでした。そうではなく、むしろ、主のおっしゃっている事柄をほとんど理解出来ていなかったのです。でも、この弟子たちが理解出来ないという事を主は分かっておられたのです。〔16:12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解出来ない。」〕

 主は、この弟子たちの不安になる様子をご覧になって、19節で「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」とおっしゃったのです。

 本日の説教題にもさせていただいているのですが、この20節で言われている「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」とは、どういうことなのでしょうか。
 もし、弟子たちが、最後の晩餐の席で、主のおっしゃったこれから起こる十字架の出来事の本当の意味を理解出来なかったのであれば、弟子たちには、この主の十字架の上で主が死なれるという出来事によって悲しみに明け暮れるだけになってしまいます。〔20節「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」〕
 しかし、主は、それだけを語ったのではありませんでした。「またしばらくすると、わたしを見るようになる(復活の事)」ともおっしゃり、それだけでなく、「父のもとに行く(昇天)」ともおっしゃったのです。ところがこの時、弟子たちは、その「復活」と「昇天」の事柄を理解するに至らなかったのです。
 そうであれば、主が弟子たちにお話しなさったそれらのことは無駄であったという事になるのでしょうか。決してそうではありません。16章4節に「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」とあるからです。
 主がおっしゃったそれらの内容は、弟子たちがこれから体験する事柄でありました。そして、やがて(使徒言行録で)成就する聖霊降臨によって、弟子たちが体験した事、つまり、主の十字架の死と復活と昇天の意味をしっかりと理解するに至るという事なのです。
 聖霊の御働きにより、弟子たちに信仰が与えられ、この信仰によって、弟子たちは、主の語られた事、なさった事を思い起こし、主イエス・キリストが真に神であられる事を理解すると同時に、神の御子による罪人の救いが成就したことを理解することになるのです。
 残念ながら、ヨハネ福音書は聖霊降臨が起きる前で終わっているので、弟子たちが主イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天の意味をしっかりと理解するところまで描かれておらず、聖霊なる御神がこれらの事を弟子たちに理解させてくださることを預言するに留まっているのです。〔16:13「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」〕
 真理を悟らせてくださる方が聖霊なる御神なのですが、この真理とは、正に、福音書の中で主イエス・キリストが語ってくださった(聖書に記された)内容そのものであったのです。
 弟子たちは、この真理を聞かされていたのに、主がこの地上に生きておられた時点では、まだ誰もしっかりと理解出来ていなかったのです。それは、弟子たちに十分な信仰がまだ与えられていなかったからです。

 今、私たちには、既に聖霊なる御神の恵みによって、信仰が与えられ、この主イエス・キリストのお語りになった真理を理解し、これを心から信じることが出来ているはずであります。そうでありますから、主の十字架の死は、単なる悲しみで終わってはいないのです。
 主イエス・キリストは、十字架の上で死んで終わられる方ではなく、私たちの罪の贖いとなってくださり、神の御前に義なる者としてくださり、更には、その私たちに神の国を知らしめ、やがてこの神の国へ迎え入れられるとの大いなる希望を、この世で生きる私たちに与えてくださった方なのであります。それだから、悲しみで終わるのではなく、心からの喜びで満たされると主はおっしゃったのであります。
 従いまして、この喜びは、人間が自分たちの力で得たものではなく、聖霊なる御神の働きによって、私たちが理解することに伴って与えられた喜びであると言えます。この神の恩寵は、信仰によってのみ理解することが可能です。その信仰を与えてくださるのが、聖霊なる御神なのであります。
 主イエス・キリストの十字架の死の悲しみを喜びに変えてくださる方は、聖霊なる御神の御働きによるのであり、聖霊なる御神が、今も働らかれている事を信じる聖霊信仰は、私たちキリスト者の信仰の根幹なのです。