2021年1月3日主日礼拝説教

説教 「真理の霊と向き合う年」 平向倫明 副牧師
聖書 ネヘミヤ記9章16~21節、ヨハネによる福音書16章1~15節

 ヨハネ福音書16章1節の「あなたがた」とは、主イエス・キリストに従ったために迫害に遭うことになる者たちのことです。本日の御言葉は、主に従った者たちが、迫害されることで、信仰に躓く事が無いようにと、主の配慮が語られています。
 迫害される者には、「自分は、主イエス・キリスト(真の神)に従っている」との認識がある訳ですが、しかし、迫害する者たちにも、「自分たちは真の神に従っている」との認識があったのです。
 しかしながら、その者たちがなぜイエス・キリストと、キリストに従う者たちをも迫害するのかについては、主は、「彼らが、父も私をも知らないからである」と理由を示します。「真の神とその御子のことを知らない」と言うことは、迫害する者たちは、父なる神を本当には知らないのに、「自分たちこそは、神に従っているのだ」と思い込んでいるだけ、と言うことになってしまう訳です。
 「自分たちは神に従って正しいことを行っているのだ」との思い込みによって、その自分たちの信じているはずの神の独り子を迫害すると言う、とんでもないことをしてしまうのです。この迫害する人たちには、「信仰」と「思い込み」の区別がなくなってしまっていると言えますが、そもそも「信仰」と「思い込み」とはどのように違うのでしょうか。
 本日のもう一つの御言のネヘミヤ記9章には、出エジプトの出来事が思い起こされる形で記されています。
 主なる神がモーセに御心を示され、モーセがその御心を民たちに取り次ぐ事で、イスラエルの民たちをエジプトの奴隷から解放し主なる神を礼拝する民とするために、エジプトから脱出してカナンの地を目指したのです。ところが、モーセがシナイ山で十戒の刻まれた2枚の板を授かるのに時間を要したため、しびれを切らした民たちは、モーセに代わって自分たちを導く神を作るようにと、モーセの兄弟アロンに願って、金の子牛の像を作ってしまったのでした。この時のイスラエルの民たちの金の子牛を作らせた信仰が「思い込み」であったのです。
 自分たち自身の思いを自分たちで膨らませ、自分たちが満足しようとすることが「思い込み」です。信仰の対象としての、実存・実体を伴う人格的な相手を持たない信仰は、独り善がりの「思い込み」に陥り易いのです。人間の中にある「信念」や「信心」だけでは、「信仰」の対象としての人格的な相手を見出すことは困難であると言えます。
 イエス・キリストを迫害していたユダヤ人たちも、聖書は持っていましたが、聖書の解釈を導いてくれる人がいなかったので、自分たちが欲する様に聖書を読んでいたと思われます。この結果、律法を守る事が信仰だと思う様になってしまったのでした。
 律法を守る事、それ自体に価値を見出すだけでは、自分たちの心の満足を追い求めるだけになってしまい、信仰によって向き合う方としての「愛の神」を知ることは出来ず、神と隣人を愛することが、律法を心から喜んで守ることになるとの理解へ辿り着くことが出来なかったのです。人の思い込みは、その人を傲慢にしてしまいます。人の「思い込み」の中には、自分を戒めてくれる相手を見出す事がないからです。次第に、自分の考えを絶対的なものとし、自分の考えを変えることを厭う様になってしまうのです。

 ネヘミヤ記9章16節の「傲慢」と20節の「悟り」が対比されています。信仰とは、自分が向き合う客観的な相手を持つことです。ただ持つだけではなく、その相手を心から信頼することです。「信仰」と訳された言葉には「信頼」と言う意味があります。信仰する相手を信頼するとは、患者と医者の関係、或いは、乳飲み子と母親との関係に似ています。患者は自分では治せませんから医者に頼るしかありません。乳飲み子も自分一人で生きて行くことが出来ませんから母親を頼るしかないのです。
 「神を信仰する」と言うことも、患者や乳飲み子が全てを相手に委ねる様に、全てを神様に委ねて、神様から導かれるままに生活していくことを表します。そこには、もう「自己中心」と言う言葉は存在しようがありません。ただただ、神様に自分自身を100%委ねることであります。委ねた結果に一切の文句を言わないで、委ねた結果を感謝して受け入れるのです。その様に主なる神と向き合って、主なる神を完全に信頼することを体験して、神の真理を悟ることが出来てくるのです。
 私たちの主イエス・キリストは、父なる神を心から信頼して、人類の救いのためにこの地上におりて来られ人間となってくださいました。ところが主は、その人間たちから十字架に架けられて殺されてしまったのでした。しかし主は、父なる神に対して一切の文句を言わないだけでなく、自分を殺そうとしている人たちを赦してくださるようにと、十字架の上から父に願われたのでした。これが「信仰」なのです。主イエス・キリストは、信仰のお手本をも私たちにお示しくださったのでした。
 この地上におけるイエス・キリストの一番大きな役割は、十字架の上で、私たち人間の罪の贖いとなってくださることでありましたが、この御業以外にも、旧約聖書を解釈して神様の御心を教えてくださったので、12使徒を筆頭とする弟子たちは、聖書の解釈を学び、父なる神の御心を知ったのでした。主イエス・キリストは、弟子たちが父なる神様がどの様なお方であるのかを正しく知ることが出来る様にと教えてくださっていたのです。
 しかし主イエス・キリストは、十字架にお架かりになって死なれてしまったのでした。それでも主は、御自身がこの地上から居なくなっても、地上に残された者たちが困ることがないようにと、聖霊なる御神をこの地上へとお遣わしくださったのです。

 ヨハネ福音書16章7節では、聖霊のことを弁護者と表しています。御子が天の父の御元へ帰られた後に、聖霊なる御神が御子イエス・キリストに代わって、この地上に遣わされることを主が預言なさっておられます。
 16章4節以降を見てみますと、聖霊なる御神が地上にもたらしてくださる恵みは絶大なものであることが分かりますが、それならば、御子イエス・キリストがこの地上に来られるのではなく、最初から聖霊なる御神がこの地上に遣わされたら良かったのに、とはならないのです。
 なぜなら、神の御子、主イエス・キリストがこの地上に人間となって来られたからこそ、私たち人間の目で見えて、耳で聞こえて、手で触れることの出来るお方としての実体を現してくださったからです。イエス・キリストと言うお方が歴史上に実存なさった方であることと、神が人間となられ、その実体をこの地上に現された事の意味は、とてつもなく大きな恵みをもたらすことであったのです。この主イエス・キリストの実存・実体が、私たちの信仰の対象としての明確な姿であり、この主イエス・キリストの実存・実体が、私たちに単なる「思い込み」を抱かせることがないようにと、人格的な神として、私たち人間に御言を語り掛けてくださって、私たち人間を導く神となられたのです。
 聖霊なる御神は、そのイエス・キリストの実存と実体を私たちに思い出させる役割を担うことが、4節に語られています。主イエス・キリストが実際にこの地上にいらしてくださったからこそ、聖霊なる御神がこの地上に来られる意味があったのです。

 東中通教会は、今年の4月から新しい教師を迎えます。人間的には、そこから新しい教師と信徒との信頼関係を築く時間がスタートすると言えますが、聖霊なる御神がこれまでと同じように、講壇に立つ教師の口を用いて神の御心を私たちに語ってくださることに対しては、初めから信頼を持って、その口から語られる御言を受け止めなければならないでありましょう。そのためにも、私たちの信仰には、主イエス・キリストの実存と実体の真理を悟らせてくださる聖霊なる御神への信頼が必要不可欠であります。聖霊なる御神と向き合いながら、主イエス・キリストの御名を信じていくことが、私たちの信仰なのです。