2021年1月31日主日礼拝説教

説教「キリストによる平和」 平向倫明 副牧師
聖書 エゼキエル書17章11~16節、ヨハネによる福音書16章25~33節

 ヨハネ福音書16章27節に記される主の「信じたからである」との事柄は、26節にある「その日には」弟子達は信じた、という事を表します。「その日」とは聖霊降臨日と推察され、「聖霊が与える信仰によって信じた」との解釈です。ところが、27-28節の主の発言に応えて、弟子達は30節で「~あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と最後の晩餐の席で言ったのですから、主が「その日には~あなたがたが信じた」と仰った事と弟子達の信じる時期が異なるのです。

 そこで、31節を見ますと「今ようやく、信じるようになったのか」と、弟子達が信じた事を恰(あたか)も主が受け入れた様な翻訳ですが、原典では「今、あなたたちは信じるのか?」との弟子達に対する主の問掛けなのです。また32節の「だが」は「見なさい」が本来の意味です。従って主は、これから弟子達の身の上に起こる事に対し、「自分達の姿を見てみなさい」という意味を込めて、「あなたがたは私が逮捕されるとばらばらに散らされて自分の家に帰ってしまい、私を見捨てて一人にする時が来る。いや、既に来ている。それなのに、私が神のもとから来たと、本当に今、あなたがたは信じていると言うのですか?」と仰っているのです(聖書協会共同訳参照)。弟子達は、まだ自分の信仰の弱さを知らずにいたために、主に向かって胸を張って「信じます」と言ったのでした
 主が弟子達にその様に問い掛けた事は、信仰の薄い弟子達を見放したのではなく、むしろ、主が弟子達を心から愛しておられた事を、後から弟子達が思い起こすためであったと言えます。丁度、主がペトロに「鶏が鳴く前に、三度私を知らないと言うだろう」と仰った事と同じ性質の言葉を31節で「今、信じると言うのか?」と弟子達に問い掛けたのです。
 十分な信仰の無い弟子達でありましたが、27-28節で主が仰った言葉に倣って、主の言葉の真似をして、弟子達は「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」との言葉を主に返した事は意味のある大切な事です。なぜなら「主の祈り」も自分達の力で祈れるようになったのではなく、主が教えてくださった祈りをそのまま真似て祈っているのですから、主に倣う・主を真似る事の大切さを感じます。この弟子達に私達の姿が映し出されています。信仰も祈りも主が先手を取ってお示しくださっておられる恵みの中に私達は居るのです。

 ヨハネ福音書の特徴の一つですが、神の救いの御業について、人間の力がなければ神の救いの御業が成就しないという形をとっていません。救いの御業の全てが、神の側にその根拠があり、神の御力によってのみその御業が為されるという理解なのです。ですから、ゲッセマネの園で主が捕らえられてしまうと、自分を守ろうとして一目散に逃げ出してしまう様な弟子達であるにも関わらず、主が、この信仰の薄い弟子達は「平和を得る」と宣言なさっておられる根拠が、32節後半に記される「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ」との主の信仰です。
 主は、弟子達に見捨てられても一人ではなく、父が共におられるとの父なる神に対する信頼を微塵も失う事なく、十字架の死に際して言い表す事の出来ない苦しみに遭おうとも、常に父なる神が共におられる事への信頼を持ち続けたのです。この主の信仰が私達のお手本であり、キリストによって私達が平和を得るために必要な主の信仰なのです。

 33節で、私達がこの世で歩んで行く際に苦難がある事を主は預言なさっておられます。主の仰る「勇気を出しなさい」とは「安心しなさい」という意味の言葉です。「勇気を出して私達が何かをしなければならない」と言うよりは、主は私達に、ご自身の信仰の故に「安心しなさい」と仰っておられます。主が既に世に勝っているから、私達は安心出来るのです。「父なる神が、いつも共におられる」という主の信仰が、この世に勝利したのです。この世に勝つとは、この世の誘惑に勝つ事です。主の父に対する信仰によって、主は十字架の死の苦しみから逃げる事なく、十字架の上でしっかりとご自身の命をお捧げする役割を果たされたからこそ、この世の誘惑に打ち勝ったと言えます。
 大祭司の中庭での裁判の時、主が「自分は、神の子・メシアではない」と、この一言を言えば主は十字架の死の苦しみから解放されたのです。しかし、もし、主がその様に言ってご自分の命を守ったとすれば、ゲッセマネの園で散り散りに逃げていった弟子達と同じになり、この世の誘惑から負けてしまった事になるのです。

 父なる神を信じる主の信仰がこの世に勝利したのであれば、その主を信じる信仰もこの世に勝利するはずです。キリストによる平和とは、人が神と共にいる事が出来る様になった平和の事です。この事が主の信仰において成就したのであれば、その主イエス・キリストを信じる信仰によって、私達は、キリストによる平和の中に居ると言えるのです。