2021年2月14日主日礼拝説教

説教「義に飢え渇く人々は幸いである」 牧師 福井博文 
旧約 詩編42編2~9節、マタイによる福音書5章6~7節

 主イエスは山上の説教で「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」と語られました。「義」と訳されるのはギリシャ語でディカイオスネという言葉です。英語ではライチャスネスです。これは「正義」とか「正直」と訳されますが「神に喜んで受け入れられる状態」のことを意味します。「飢え」は動詞のペイナオーから来たもので「切望する」という意味も持ちます。「渇く」は動詞のディプサオーから来たもので「渇望する」という意味もあります。ですから「義に飢え渇く人々」は「神に喜んで受け入れられる状態を強く求めている人々」のことを言います。
 以上のことから分かりますように「義に飢え渇く人々」とは、二通りの人々のことを想定しています。ひとつは、偽りの証言によって窮地に落とされた人々、高い税の負担に苦しむ人々、同じ過ちを犯しても女性だけが罪に問われる理不尽に苦しむ人々等のことを言います。もうひとつは、そういった人たちを救いたいと願いつつ、壁に阻まれ助けてあげることができないで苦しむ人々、悲しむ人々のことを言います。
 先週、この6節は本来4節の「悲しむ人々は幸いである。」に続く文章だったと考えられることを申し上げました。もしそうであるなら同じようなことが強調されていると受け取ることも可能です。「義に飢え渇く人々」とは、悲しみが取り除かれ、神の正義が行われることをひたすら願い求める人々なのです。ところで、このような願いや祈りは、わたしたち人間の内側から出てきたように思う向きがあるかもしれませんが、実は神ご自身の願いであり、神からわたしたちの思いの中に届けられたものなのです。ですから主イエスは言われるのです。「その人たちは満たされる。」と。
 「満たされる」はギリシャ語でコルタゾーという動詞から来ています。未来形、受動態、直説法ですので「満腹させられる」という意味になるのです。もちろんそこにはかなりの時間が必要でしょう。願いがかなうためには、忍耐すること、諦めないで待ち続ける姿勢が必要です。信じて祈り続けるなら、その祈りと願いは必ず聞かれると主イエスは言われます。
 預言者のミカは次のように語りました。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6章8節)わたしたちは正義を行おうとする時、気をつけないと愚かさのゆえに、人に対する慈しみを忘れ、平気で人を裁き、自分の考えを押しつけようとしてしまいます。正義を語り、正義を行うとき、かならず持つべきものは謙遜です。そうでないと神のみこころにかなう判断をすることができなくなるのです。
 次ぎに、主イエスは言われました。「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」「憐れみ深い」は、ギリシャ語のエレエーモーンという形容詞です。「恵みに富む」という意味です。英語ではマーシィフルです。ヘブライ人への手紙の中には次のような表現があります。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ人への手紙2章17節)
 わたしたちは憐れみと言うとすぐに、上から目線で、余裕のある立場の人が余裕のない人に示す傲慢な態度のことと考えがちです。しかし、聖書で言う憐れみはそうではありません。神と人との仲保者であられる主イエスは、人と同じ環境で、同じ立場で、悩み、痛み、苦しみ、不安を共有し、責任を担い、事柄の解決に尽力されました。主イエスは誰よりも強く、義に飢え渇く者であられ、憐れみ深いお方でした。
 「その人たちは憐れみを受ける」の「憐れむ」は、前述と同様、動詞のエレエオーが使用されています。同情する、助けるという意味です。未来形、受動態、直説法ですので「その時には憐れまれるでしょう。」ということになります。これは最後の審判の時のことを言います。
 憐れみは愛と重なり合うものではありますが、全く同じではありません。なぜなら憐れみは神の裁きに際して特別に示されるものです。ここでは死んだのちにすべての者が受けなければならない最後の審判のことが話題にされています。この神の憐れみは、ファリサイ的ユダヤ教徒が主張した律法遵守の功績、カトリック教徒が主張する功徳思想から、神の憐れみを要求するのではありません。ひたすら神からの一方的に示される憐れみのことを言います。
 わたしたちはしばしば、神は愛であるから罪深い人間をも赦すべきだと神さまに向かって平然と言い放ちます。これほど傲慢な態度はありません。神の憐れみは、あくまで神から示されるものです。わたしたちはしばしば神を押しのけて自分が裁判官になろうとします。わたしが赦すと言っているのだ。だから神もわたしに従えとばかりに「赦し」を神に命じるのです。こういった傲慢がしばしば信仰者と言われる者の中にも見られます。
 憐れみは、神の存在の本質に属するものですが、これが見える形で明らかにされたのは御子イエスの「十字架の出来事」によってでした。主イエスはわたしたちの罪を背負い、わたしたちの身代わりに、神の審判を受け、神の刑罰を受けてくださいました。ですから父なる神はこの御子イエスを心から信頼し、世界の裁き主として立ててくださったのです。
 真の裁き主は真に「罪を覆う者」でなければなりません。わたしたちは罪を覆う者でなく、罪を裁く者に過ぎません。ですから裁き主に相応しくないのです。そこでわたしたちは主イエスを差し置いて、裁き主になってはいけませんし、赦し主になってもいけません。わたしたちは裁きと赦しに関して常に手控えるべきです。そして、主イエスの判断を待たねばなりません。それがわたしたち信仰者のわきまえというものです。
 同じマタイの福音書の中に出てくる「仲間を赦さない家来のたとえ」を思い起こしてください。王さまが家来に貸したお金の決済をしたところ、1万タラントンの借金をしている家来がいました。日本円で6000億円もの高額な借金になります。王さまはどうやっても返せない額だと判断し、可哀想に思い、帳消しにしてやりました。これは神の憐れみを表します。
 ところが、この家来は家に帰る途中、100デナリオンを貸している仲間に出会い、今すぐ返すように要求し、この仲間を自宅の牢に閉じ込めました。日本円では100万円ほどの金額です。これを聞いた王は激怒し、この身勝手な家来を全額返すまで国の牢につなぎ置いたと言います。恩を仇で返すとはこのことです。主イエスが勧めておられるのは、自分が神から受けた恩恵を忘れずに、隣人にも恩恵を分け与えることです。
 わたしたちは神から受けた恵みに応じて、人に恵みを施す者となりましょう。神から受けた赦しに応じて、人を赦す者となりましょう。わたしたちは神からどれほど多くの恩恵を受け、どれほど多くの赦しを受けていることでしょう。このことをいつも思い起こす習慣を身につけましょう。このような人は、最後の審判の時に、神から憐れみを受けると主イエスは仰せになります。(降誕節第8主日礼拝 2021年2月14日)