2021年2月21日主日礼拝説教

説教 「イエスの御名の栄光」 副牧師 平向倫明
聖書 出エジプト記14章15~18節、ヨハネによる福音書17章1~10節

 ヨハネ福音書17章の主イエスの祈りは、主が逮捕される直前に捧げられた祈りです。この祈りを良く見てみますと、主が父なる神に願ったのは僅かに二つの事だけだと分かります。一つ目の願いは、1節と5節の「栄光を与えてください」というもので、9節でも「お願いします」とその事を重ねて願っておられます。もう一つの願いは、21節の「一つにしてください」というものですが、これは次週の説教で取り上げます。

 17章1節の「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」との訳は少し分かり難いです。「栄光を与える」と訳された言葉には「光を輝かせる」との意味もあります。そこで、「栄光を与える」を「輝かせる」の動詞一個に置き換え、原典に沿ってこの文章を見直すと、「あなたはあなたの子を輝かせてください。それは、あなたの子があなたを輝かせるためです」となり、父から子へ・子から父への両方向で栄光を輝かせ合うという構図である事が分かります。その様に父と子の両方向で栄光を与え合う事により、父と子が別々な存在なのではなく、父と子が一体であることを証しするために、御子である主イエスが父なる神に向かって「私に栄光を与えてください」と願っておられたのです。〔この「栄光を与えてください」は、ギリシア語文法のアオリスト命令形になっていますから、まず父に「子へ栄光を与えたい」との強い思いがあって、子は「その思いを速やかに実行してください」と父に願ったという意味合いになります〕

 では、「父が子に与える栄光」とはどの様なものなのでしょうか。5節に「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と記されています。御子が父に願った「栄光」とは、もともと、主がこの地上へ降って来られる前に持っていた栄光の事であると主ご自身が仰っています。三位一体の神は、天地万物の創造の前から三位一体の神であられたのですから、主イエス・キリストは、天地創造の前から神として天上に既におられたのです。
 しかし、エフェソの信徒への手紙2章6節以降に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とありますように、主はご自身の栄光を捨ててこの地上へ降って来られ、そして主は人類の救いのために十字架にお架りになり、罪人として処刑されてしまったのです。

 この様にして処刑された主のお姿のどこに栄光があると言えるのでしょうか。何の罪も無い御方が、罪人として処刑されたのですから、真に惨めな死に方をなさったのではないでしょうか。しかし、父なる神は、十字架の上でその様な死に方をなさった御子イエス・キリストに栄光を現しなさったのです。
 マタイ福音書27章45節からをお読みします。
 45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

 一見すると、十字架の死と言うのは、処刑された罪人の惨めな姿を映し出します。しかし、父なる神は、その十字架に架けられた御子に栄光を与え、「本当に、この人は神の子だった」と、百人隊長が言ったように、イエス・キリストの神性をこの世に現しなさったのでありました。マタイ27章51節から53節に記される不思議な出来事が、父が御子のために現わされた栄光なのでありました。この父の現した栄光によって、十字架で処刑されたイエス・キリストが、「本当に、この人は神の子だった」と、神の子として天で持っていたあの栄光が再び与えられることになったのであります。この様にして、御子は父によって栄光が与えられたのであります。
 そして、御子ご自身は、十字架の苦しみから逃れようと思えば逃れることも出来たのに、父なる神の御心を知り、人間たちの罪による苦しみを知って、人類の罪の贖いために御自身を犠牲としてお捧げくださったのでした。この主の犠牲によって、父なる神が、人類の救いのために御自分の独り子さえ惜しまずお捧げくださった「愛の神」であることを、人類ははっきりと知ったのです。父には御子の十字架によって栄光が与えられたのです。
 父も子も互いに栄光が与えられましたが、それで終わりではありません。父と子に栄光が与えられたことによってどうなるのでしょうか。
 それが、17章3節の「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」です。父と子の栄光によって、人々は、真の神を知ることになったのですが、3節では、神を知ることが永遠の命に与ることであると言われています。既に、ヨハネ福音書では3章16節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言われていたのです。救い主イエス・キリストを神であると知り、父なる神を愛の神であると知る事によって、人々は本当の神を知ったのです。

 1節と5節で「子に栄光を与えてください」と願っている段階なのに、6節から10節は、子が栄光を与えられたことによる人類の恵みについて、それが成就したかの様に祈っておられます。特に8節では、「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」と仰っておられますが、この時点(最後の晩餐)では、まだ弟子達は、父なる神が主イエス・キリストをお遣わしになったことを主から聞いて頭では分かっていても、心から信じるには至っていなかった訳です。それなのに、ここで主は「信じた」と仰っておられるのです。この事は、丁度、ヨハネ福音書11章41節で、ラザロが死んでから四日も経っていて、まだラザロが蘇って墓から出て来ていないのに、主は、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と完了形で父に祈っておられるのに似ています。主は、父なる神と聖霊なる神に対する絶対的な信頼の中におられるからこそ、その様に祈られたのです。その父なる神と聖霊なる神に対する揺るぎない信頼が、主イエス・キリストの信仰なのです。三位一体の神として、一体であることを主自らも貫いておられる姿がここにあると言えます。

 10節の最後に、主は、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と仰っておられます。この「彼ら」の中に、東中通教会の私たちも含まれています。その証拠が、今、私たちは、主イエス・キリストを神として礼拝をお捧げしている事です。イエス・キリストを神と認めることがイエス・キリストに栄光を帰すことであり、栄光を帰すこととは、主イエス・キリストが啓示なさった、御子なる神・父なる神・聖霊なる神の三位一体の神を心から信じて礼拝をお捧げすることなのです。