2021年3月14日主日礼拝説教

説教 「聖霊なる神への信仰」 平向倫明 副牧師
聖書 詩編51編12~14節、ヨハネによる福音書21章15~23節

 ヨハネ福音書の21章は、主イエス・キリストとペトロの「わたしを愛するか」・「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」との三度に亘るやり取りによって、一体何を伝えたいのでしょうか。
 ここの解釈の一つには、ペトロが大祭司の庭で、三度主イエスを否定した罪に対して主が癒しを与えたとする見方があります。もしそうだとしますと、この時、ペトロは自己嫌悪に陥り、苦しみに喘ぎ、心の底から後悔していた事になります。
 ところが、21章21節で、「ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。」とあるのです。もし本当にペトロが心の底から自分自身を悔いて、どん底に沈み込む程に自己を反省していたとすれば、周りにいる人へ目をやって「あの人はどうのこうの…」と他人を批判する余裕などないはずなのではないでしょうか。もちろんペトロは、主を三度も否定した事によって、苦しみを伴って悔いたと思うのですが、その悔い改めによっては、まだ、三度の「わたしを愛するか」との主イエスの真意を理解してはいなかったことを示しています。

 では、この三度の「わたしを愛するか」との主の真意とは何でしょうか。
 主は、ペトロが応えた後に、更に「わたしの小羊を飼いなさい」・「わたしの羊の世話をしなさい」とおっしゃいました。これには「伝道しなさい」との意味がある訳です。しかし、その「伝道しなさい」には、途轍もない困難が秘められていたのです。
 それが、18節の「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」との言葉です。これは、ペトロが殉職することを示しているからです。
 主が、おっしゃった「わたしを愛しているか」との「愛」は、「アガペーの愛」が用いられています。「アガペーの愛」とは、自己犠牲を伴う愛の事です。主イエス・キリストは、ペトロがどの様な死を遂げるのかをこの時すでにご存じでいらしたのでした。主イエス・キリストのために伝道するとは、主イエス・キリストが父の御心に適う様になさった事(福音)を告げ知らせることでした。
 主はペトロに「御心のために、あなたの命を懸けて、わたしの福音を告げ広めなさい」とおっしゃったということであります。
 しかし、その主の「アガペーの愛でわたしを愛するか」とのお言葉に対して、ペトロは「フィレオーの愛で愛します」と応える事しか出来なかったのです。フィレオーの愛とは、友情や尊敬・敬愛などを含む兄弟愛の事です。この時のペトロには、自分の命を犠牲にしてまで伝道へと歩み出る事など想像すら出来なかった様子が描かれていたのです。
 その様なペトロに対し、主イエス・キリストは叱責するのではなく、むしろペトロへ寄り添ったのでした。そのことを示しているのが、三度目の「わたしを愛しているか」であります。この三度目の「愛する」を、主はペトロが用いたのと同じ「フィレオーの愛」で問いかけたのでした。御心を察する事の出来ないペトロに対し、主は、「わたしはいつもあなたと共に居る」との思いを込めてペトロと同じフィレオーの愛を用いたと解釈出来るのです。
 本日の説教題を「聖霊なる神への信仰」とさせていただきました。しかし、本日のヨハネ福音書の御言には「聖霊」と言う言葉は一つもありません。けれども、この主イエス・キリストのペトロに対する応対の背後には、間違いなく聖霊なる御神への信頼があります。この後、聖霊降臨が起こります。聖霊の御業によって、ペトロは自分の命を懸けて主イエス・キリストを伝道する者となった事が使徒言行録に記されているのです。
 自分の身が危険に晒されようとも、ペトロは唯一「主がいつも共におられる」事のみを励みとして伝道し続けたのでした。このヨハネ福音書全体はこの聖霊信仰の上に描かれていたのでありました。他の3つの福音書の終わり方が、主イエス・キリストの昇天と言う華やかな舞台で終わっているのに対し、ヨハネ福音書はペトロの弱さを曝け出す形で終わっています。この様な恰好の悪い終わり方になっているのは、聖霊なる御神への心からの信頼が表されているからこそと言えるのではないでしょうか。
 伝道は、決して楽しいものではないことが、本日の御言からも示されています。しかし、一人でも多くの人を救いたいとの御心がある限り、先に救われた私たちは、この主イエス・キリストの十字架の死を無駄にしないためにも、自ら必死に伝道する者として歩みたいと思うのです。その様な私たちの歩みの中にこそ、主はいつも共に居られるのです。
 信仰は、聖霊なる御神によって与えられるものですが、その信仰に与る前提の悔い改めをも聖霊なる御神が与えてくださることが、ペトロの様子を描いた本日の御言からも窺い知る事が出来るのです。