喜び、感謝をささげよ

聖書 イザヤ書12章1〜6節 |ヨハネによる福音書 20章11〜16節

イエス・キリストの復活の朝、私たちは何を見るでしょうか。かわいい卵でしょうか。ウサギの形のチョコレートでしょうか。素晴らしいアレンジのお花でしょうか。弟子たちは、復活の朝、空(から)の墓を見ました。墓を閉じるための大きな石は動かされています。イエスの弟子マグダラのマリアは、最初の発見者でした。墓に何もないこと、主イエスの遺体が取り去られたことに気づき、二人の弟子に伝えます。ペトロと主の愛しておられた弟子ヨハネが、マリアに続き墓を確認し亜麻布が置かれているのを見ます。空の墓には亜麻布だけが置いてあります。

復活の朝「主が取り去られたように見えた」ことを、ヨハネ福音書は強調します。ルカ福音書にも空の墓の記事があります。そちらでは女の弟子たちと11人、その他の弟子たちの発見が短い報告文にまとめられています。ヨハネ福音書はこの倍くらいの長さです。登場人物はマリアを筆頭に、ペトロ、ヨハネの三人だけ。この弟子たちは、「主が取り去られたように見えた」経験をします。ヨハネはこの語りにより、「復活」を伝え始めるのです。

マリアはペトロとヨハネに伝えます。2節「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。6節「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た」。8節「それから、先に墓についたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」。マリアの報告を聞き、ペトロと二人で走って行った「もう一人の弟子」ヨハネ、足が速かったのです。墓の入り口まで行って中をのぞき確認しましたが、年長のペトロを待ちました。9節、ペトロとヨハネの信仰(見たが、イエスの復活は、まだ理解してなかった)が記されます。10節、二人は家に帰ります。

弟子たちは初め、一様にイエス・キリストの復活を理解していませんでした。空の墓を見ただけだったと記されるのです。「主が取り去られた」というマリアの見方を二人も同じくしたということです。よく見たとしても分かったことは、亜麻布の置かれていた位置だけでした。

イエス・キリストの復活の朝、私たちは何を感じるでしょうか。登場する弟子たちは誤った見方をします。「主が取り去られた」という見方です。誰が取り去ったのでしょう。園丁でしょうか。いいえ。神が主イエスを取り去り、弟子たちに新たに与えてくださったのです。

マリアは、自分の間違った見方ゆえ泣いていました。天使に声をかけられても「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言うのみ。簡単には動かされない私たちの心を表しているようです。主イエスがマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と聞いても、振り向かないまま園丁と思って、答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。なんと頑ななのでしょう。主イエスは十字架にかけられて死ぬ前、弟子たちにおっしゃっていました。主イエスご自身が「必ず死者の中から復活されることになっている」(9節)ということを。主イエスはマリアを正します。ご自分の方に向き直させます。「マリア」、「ラボニ」(16節)。

イエス・キリストの復活の朝、私たちは何を聞き取るでしょうか。毎年のイースター、私たちは何度も弟子たちが主イエスに向き直った話を聞きます。私たちは、復活の知らせを受けても、不安になるか、ヨハネ福音書の記すマグダラのマリアのように動じません。自分の感情に支配されていて、すぐには主イエスの方に向き直れません。主イエスはマリアを正します。私たちをも、ご自分の方に向き直させます。

16節の主イエスが呼びかける「マリア」の箇所に、ご自分の名前をそっと置いてみてください。そして、あなたの主に対する応答を「ラボニ」に当てはめてください。ラボニとは、主イエスを呼ぶ時にマリアが使っていた言葉、「先生」という意味です。私たちキリスト者は「主よ」とか「イエス・キリスト」とか「キリスト」など様々な呼び名で主イエスを呼びます。このイエスは十字架上で死なれ、復活し現れてくださった主なる方であり、天に上げられる王です。

主イエスの呼びかけを聞き取りましょう。主に感謝をささげましょう。主は復活してくださった。そして、あなたにご自身の栄光を、ご自身についての聖書の教えを授けてくださった。祈りの内にこのイースターの出来事を受け止め、賛美をささげましょう。

(2021年4月4日 復活節第一主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子)