信仰による生

聖書 ヨシュア記 6章1〜20節ヘブライ人への手紙 11章17〜22節、29〜31節

 

 人生という言葉があります。夏期学校の分級で、CS教師が「皆さんの人生の中で、聖書の言葉を自分なりに受け止め、考えることが、これからきっとあるはずだ」と言いました。日常的にはあまり使わない人生という言葉が突然、耳に響き、同席していた私は「人生ってすごい言葉ですね」と思わず反応してしまいました。「あなたが生きる間に」という意味で語るCS教師の語り。一人の証人のメッセージとして強い印象を残しました。

 生涯という言葉があります。一生として数えられる生。死のみぎわまでの生。「a life」。命そのものを指し、生活、人生を指す言葉でもあります。9月に、東中通教会の愛する兄弟、柴田昭さん、石山徹さんが天に召されました。私が赴任して以来、最初の葬儀が連続して行われました。いずれも、コロナ禍のため家族葬。人数を制限して行わざるをえませんでした。それでも一人の人の生涯は、増えたり減ったりするものではありません。長い、短いということはあっても、必ず一つの生涯です。数え間違えられることはありません。

 生は、重みがあり愛おしい。人生という言葉で語るとしても、生涯という言葉で語るとしても、失われたり、軽んじられたりすべきでない生があります。それ故にこの地に残された私たちは、先立って逝った人たちの生きていた間の記憶を、覚えられる限りの仕方で留めます。

 本日読まれたヘブライ人への手紙は、信仰によって生きた人々を思い起こすよう呼びかけられる箇所です。思い出されているのは、「神の民」と呼ばれたイスラエル人の記憶。語り継がれた物語です。「神の民」とは、具体的には神の掟、律法を与えられた民のこと。律法は後にモーセ五書にまとめられます。

 その中の最も重要なものは十の戒めで、もともと石の板に刻まれたものでした。石の板は、契約の箱に収められました。神から掟を与えられ、神のみ前に生きるようにされた人々は、この箱を担ぎ、移民としてヨルダン川の西側に渡ります。カナン地方・エリコの町に侵攻します。この人たちが、神を信じた人たちとして、ヘブライ人への手紙の中で覚えられています。

 エリコの攻略はヨシュア記に詳しく記されています。民の戦争の歴史ですが、不思議な響きを持っています。この侵攻が儀式を伴うもので、神を信じた人たちが、神のみ心と知るための出来事でもあったと伝えられるのです。祭司が角笛を吹き、7周目を告げると鬨の声が上がります。民は声をあげて城壁を破り、攻め入ります。そのようにして神に導かれ、守られたと語られます。

 驚くべきは、ヘブライ人への手紙に遊女ラハブの名前も記されることです。神を信じた人たちの一人はラハブです。彼女はエリコの町の遊女で、女主人でした。民が攻め入る前、二人の斥候を自分の宿に泊め、かくまいます。出エジプトした民が強大な力を持ち、神を信じる民だと伝え聞いたためでした。民の運命を変えた人物ですが、他の一般の人々と何ら変わらないような人物でもあります。そのラハブの名が、族長、民の指導者たちの名前と並んで記されるのです。

 知られているのは、ラハブの働きにより、ラハブもラハブの家族も殺されずに残されたこと、そして考えられているのは、後にイスラエルの民にラハブの家族が加えられたということです。一つ言えることは、ラハブが神を畏れていた人物であっただろうということです。とはいえ、ヨシュア記で語られているのは、ある日の日常的な一場面です。

 古代の日々において、戦争中、誰かが誰かをかくまったという出来事は、よくある出来事だったでしょう。それが、信仰によって生きた人々の記憶として覚えられているのです。ラハブについては、ヘブライ人への手紙で覚えられ、多くの人に知られるようになりました。

 なお、信仰の物語として重要なアブラハムのイサク奉献物語も、よくよく考えれば、日常の一場面の記憶のようです。アブラハムは神の命令により、息子イサクを犠牲としてささげようとします。信仰の故ですが、当時の周辺世界には、息子・娘を神々にささげる習慣もありました。アブラハムはイサクを手にかけようとしたその瞬間、神のみ心が滅ぼし尽くすことではなく、人が神を信じることであると知らされます。

 神の民に特徴的な、しかし日常の中に置かれたその出来事が、後の世代に語られ、記憶として留められました。

 イエス・キリストの恵みにより、全ての人を包む神のみ心も知らされました。神のみ心は、人が神を信じること。信じる者たちの生の歴史に、私たちも連なっています。

(2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子

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