出入りができる門
聖書 エゼキエル書 34章 7〜15節 | ヨハネによる福音書10章7〜18節
今日の聖書の箇所に羊のたとえが出てきます。これは神の導きを示す羊飼いと、神に導かれる羊・神の民のたとえなのだなと思って聞いていると、牧歌的なイメージだけでなく盗人、強盗、狼という言葉が出てきて、地上を歩む際に様々なリスクがあるということも伝えられます。
更に聞いていると別のイメージも出てきて、一体これは何のたとえだろうと立ち止まってしまいます。加えられているもう一つの要素は、イエス・キリストが自分自身を指して、「わたしは羊の門である」(7節)と言っていることです。
羊が出入りする門において、朝、門番が門を開けて、羊飼いが羊の群れを牧草地に連れて行きます。羊たちは牧草地で憩います。それで、羊は羊飼いの声を聞き分ける。羊飼いの存在を知っている。そう言われるのは分かります。
一方で、羊の日常だけでなく羊の習性を考えると、羊は目が悪いために、自分で草を見つけることができないということが言われてきたのです。
「わたしは……門である」と、まるで門を見るようにと主イエスが言われる時、果たして、目の見えない羊はその門が見えるのだろうかと考えてしまいたくなります。
主イエスは強調されます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(9節)主イエスは私たちのために来られた神の御子、救い主です。主イエスを見ていないのに見るというのは、主イエスを知る、また信じるということです。
その主を知るべく私たちは導かれているということなのでしょう。やがて究極的には、見えないものが見え、見ないのに信じることができるという信仰に至ります。
私たちがいつも気付かされることは、この主の門を通ることがあまりにも日常の中にあると、信仰に至っても、その恵みを忘れてしまうということです。私たちは導かれて、門を出入りする者でありながら、なお迷い、導き手を強く必要とする者なのです。
更に違う角度での視点も与えられます。平時においては、牧歌的なイメージは本当に牧歌的なものであると思わされますが、平時でない時には、その牧歌的なものが何か嘘めいたものに見えてしまうのです。信仰が揺るがされるようなことが起こるのです。
コロナウィルス感染症の脅威が分かった当初は本当に悲惨な状況で、患者は適切な治療を受けられませんでした。豪華客船が横浜港に入港できなかった時、中にいた人々は入国できず、軽症者のためのホテル借り上げもありませんでした。
患者の移送も困難を極めました。ミャンマーで軍のクーデターが起きました。今も民間人が脅威にさらされています。ロシアのウクライナ侵攻が起こりました。一体、私たちはいつの時代を生きているのか?
日常に特別なリスクがあることが分かり、そのリスクに対処するため一生懸命皆で取り組んでいたその矢先に、とてつもなく大きな力が働きました。このような時に、平和の使者と呼ばれている人たちが、何だかぼんやり見えてくる、そのような危機に私たちは置かれています。
牧歌的な歌は、私たちの心に響かないものとなるのでしょうか。平和の使者である救い主は、ぼんやりとしたものとして捉えられるだけなのでしょうか。私たちは、見ないに信じる者は幸いである、そのような確固たる信仰を持たなくてはいけません。
神が与える平和を求めて祈らなければなりません。戦火から逃げ、土地の回復を求め、離れ離れになった家族と再会する時があることを待たなくてはなりません。平時でない時にも、神を信じる信仰を確かにするよう、私たちは召されているのです。
なお、神が私たちを見ているという信仰が、私たちの確信を強いものにします。そもそも私たちは見ることの苦手な一人の人間、1匹の羊に過ぎません。しかし救い主キリストは羊を見つける方です。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)キリスト・イエスの宣言は、人々のためにご自身をささげられた勝利のキリスト、高くに挙げられた栄光のキリストを示しています。もはやこの部分に牧歌的なイメージはありません。十字架のキリストは、その苦しみにおいても栄光をあらわされたのです。
この際、羊のための囲いがどの範囲であったとか、新たに見出される囲いがどこであるとかを議論することは、相応しくないでしょう。「わたしは羊の門である。」見出す者が少なくとも、この門を入らなければ人々は救われません。
私たちは神が全てをご覧になること、羊の門の広がりが門の内と外にあるということを教えられるのです。
(2022年5月1日 復活節第3主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子)
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