結実まで手入れをしよう

聖書 出エジプト記19章 第1〜6節 | ヨハネによる福音書 15章1〜11節

 

「つながる」という言葉の意味で、絆(キズナ)という言葉がよく使われます。人と人のつながりには絆が欠かせないと。

そこで、絆について辞書を引くと、馬とか犬、動物を縄でつないでおいたり、人が自由に動けないよう足かせをすることに由来する、ということが書かれています。結構、怖いイメージです。外から人を縛る言葉だからです。

 

イエス様のぶどうの木のたとえにも、同じ「つながる」という言葉が繰り返されています。

けれども、この「つながる」は、絆の語源とは全く意味が違います。ヨハネ福音書に登場する「つながる」の元の意味を辿ると、留まる、滞在する、内に存在し続ける、とあるのです。主イエスは、おっしゃいます。

 

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」

 

キリストが、私たちの内に存在し続けるというんです。ぶどうの木と枝とは、外側から固定されて、つながるのではない。内側でつながる。神さまは私たちの内におられる。そういう喜びが、沁み渡っていきます。

 

しかし、イエス様の言葉は、私たちを喜んでばかりもいられなくします。

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」

 

枝が取り除かれ、投げ捨てられ、焼かれるのを「厳しい警告」と受け止めることも、枝にたとえられた私たちに必要なことだからです。

でも、ここで、実りのない枝とは私のことだ、私の信仰は強くないから、などと思わないでいただきたいんです。

イエス様は「お前、真っ当な人間になれ」と言うのではない。そういうところから落ちこぼれてしまう者が、どう救われるのかを語ります。神さまが言うんです。わたしが、あなたの内に居て掴んで離さない。

 

今日の聖書の1節から4節までを注意深く見てください。妙な感じがしないでしょうか。

3節が唐突なんです。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」

 

ぶどうの木のたとえをしています。この話の最中に、突然、何の事だろうか。既に清くなっているって?この3節を飛ばし、2節4節を直接つなぐ方が自然です。

「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。

この流れを3節が断ち切っています。まるで、たとえ話のぶどうの木の枝を手でかき分けるようにして、イエス様ご自身が、顔を覗かせているんです。

「そうそう、分かってると思うが、私の話した言葉それ自体!によって、あなたがたは既に清い」と。

 

実は、清いという言葉は、きれいに刈り込む、という意味があります。父なる神が、実を結ぶよう手入れするのと同じことを既になさった、とイエス様は宣言するんです。

 

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは、既に手入れがなされている。」

 

私は実らない枝として、いつか取り除かれてしまうのではないか。そう恐れる必要はない。既に、あなたは手入れがなされている。そして、なお、手入れするのは、むしろ、主イエスの励ましなんです。だからこそ、思い起こして欲しい。わたしの言葉が、あなたがたの内に、いつもあるということを。

 

イエス様が人間たちの内に留まることは、弟子たちと地上の生涯を、ずっと生き続けることを意味しませんでした。それは弟子たちには理解できない驚くべき仕方でした。

十字架の上で死ぬということです。あろうことか、主イエスが私たちの内に留まるというのは、主イエスが十字架の上で、死んでいくことで起こるのでした。

主イエスは、十字架で死なれ、三日の後に復活し、天にあげられます。そのようにして、主イエスの言葉それ自体が、私たちの内に、いつまでも、存在し続けるように、してくださった。

 

後に立ち上がった教会は、おひとりの神の内に、父と子が互いに愛し合う関係にあることを真似るようにして、互いに愛し合ってきました。これこそ主イエスの祈り願われた、新しい愛の掟でした。

「互いに愛し合いなさい。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

 わたしの愛にとどまりなさい。」

 

私たちは、教会、自らの行く末を思うと、焦ることが、たくさんあります。実を結ぶ姿が、私たちには見えないからです。でも、イエス様は、繰り返します。豊かに実を結ぶと。

実を結ぶだろう、とは言わない。豊かに実を結ぶ。私たちが、どうこうするのではない。

 

父が、実を結ばない枝を取り除くことで、私たちを生きた枝にします。天の国、それは、主イエスによって、この地で始まっています。でも、豊かに実を結ぶ一番いいときは、まだ来ていない。

まだ、これから。

 

神さまは、もうどれほど、実を結ぶのを待っていらっしゃるのでしょう。

一体、どれほど人間たちを眺め、手入れをして待っているのでしょう。

どれほど、愛にとどまっておられるのでしょう。

(復活節第5主日 みどり幼稚園デー礼拝 5月15日 伝道師 片岡賢蔵)