わたしの主、わたしの神よ

聖書 民数記 13章1~2、17〜33節 | ヨハネによる福音書 20章19〜31節

主イエスの弟子トマスは、疑い深いトマスと言われます。この疑い深さは、どこから来るものなのでしょうか。トマスは、死をも厭わない者でした。

ヨハネ福音書の11章16節で、主イエスの愛されたラザロが死んでしまい、主イエスはラザロのところへ行こうと言います。そこで、トマスは仲間の弟子たちに言います。

「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」

 

ユダヤ当局に命を狙われる主イエスが、死を覚悟されている。トマスは、主のためなら、命も投げ出そうとしていました。ところが、いざ十字架刑によってイエスは死んでしまい、自分は取り残されてしまった。

 

トマスが、復活の主を見ることを拒否したのは、誰よりも、主イエスに取り残されていくのを、悲しんでいたからではないでしょうか。愛する方の死という、とても受け入れ難い、別れの日が来てしまった。

なのに、私は生き延びてしまっている。この現実に、ずっと後悔の念に駆られて、生きていく。そういう危機の中に、投げ出されてしまった。行き詰まってしまったんです。

 

そんなトマスに、復活の主が現れて、言われます。

「信じる者になりなさい。」

 

トマスは答えました。

「わたしの主、わたしの神よ。」

 

どんな思いでトマスは、このことを口にしたことでしょう。自分だけが生き延びてしまったことの申し訳なさ、一緒に死ぬこともできずに逃げた恥ずかしさ、遺された人生を生きてしまうことの悲しみ。

自分の身には抱えきれないほどの思いが一気に溢れ出た告白でした。

「わたしの主、わたしの神よ。」

 

主イエスは、このトマスの告白に、信仰を持つ者として、さらに押し出すように言われます。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

共に朗読された民数記13章は、神の民が、神さまから与えられた「約束の地」に入れるかどうか、瀬戸際の場面です。約束の地に入るにあたって、偵察隊が送り込まれ、入念に調べた情報が民にもたらされます。

そこは、確かに乳と蜜の流れる素晴らしい所でした。しかし同時に、悪い情報も流された。巨人たちがいて、とても入ることは不可能だと偵察隊が言う。

すると、イスラエルの民は、お得意の「エジプトへ帰ろう」と泣き言を叫び、約束の地に入ることを挫折してしまうのです。

 

入念にリサーチして、疑い深く、現実を見ていくこと、それ自体は、悪いことではないでしょう。

 

しかし、聖書は、そこで現実主義に陥ることを戒めます。

「彼らは我々よりも強い」と、自分自身と比較して、現状を調べるなら、人間はどんどん不安に陥っていくからです。戦争を引き起こす要因として、この現実主義が不安を煽っていくことが挙げられます。

この国には、この私には、確かな守りがないという思いの中で、調べれば調べるだけ、現実を見るほどに、不安が増大していきます。

不安な私たちは、鎧を着て、剣と盾で自分を固め尽くして生きている。それ故に、頑なさが増していくのです。

 

そうではなく、信仰を持つ者は、そのような生き方から解放されます。偵察隊の内、カレブとヨシュアの二人は、主の御心を第一にしました。

「我々が偵察して来た土地は、とても素晴らしい土地だった。」と、純粋なまでに、主が示されたところを報告し、笑ってしまうほど大きなぶどうを担いできたのです。彼らは、後に、約束の地に入りました。

 

復活のイエスを見ようとしないトマスの問題は、現実主義者たちが悪い情報を流し、行き詰まったイスラエルの民の姿と重なります。

「見て、触れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 

この危機は、主イエスによって打開されました。トマスが、自ら調べ上げて、主イエスに会いに行き、わき腹に手を入れたのではありません。

主イエスが来られたのです。主イエスは、鍵がかけられた戸を突破して、私たちの真ん中に立って、言われる。

「あなたがたに平和があるように。」

 

そうして、信じない者ではなく、信じる者をつくりだします。主イエスのまなざしによって、私たちは疑いという武装を解除されます。自らをさらけ出して、信仰を与えられた者として生きていくように。

「わたしの主、わたしの神よ。」

 

トマスが告白したように、真の人間の体を持ち、真の神である主イエスが、真ん中に立って、私たちを見つめています。

愛する人との別れ、遺された者たちが、その悲しみゆえに、悲観的な人生を送るのではなく、現実主義に生きるのでもなく、復活の命がある、という希望を持って生きていくことができるように、主イエスが私たちを押し出す。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」

ほかの誰かに向けられた言葉ではありません。私たちに向けられています。私たちは、見ないのに信じる者の群れとなった。幸いな群れです。

(2022年4月24日 復活節第2主日礼拝 説教要旨 伝道師 片岡賢蔵)

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