これから起こる新しいことを知らせよう
聖書 イザヤ書48章1〜8節 | マルコによる福音書8章27〜33節
「あなたは、メシアです。」
私たちは使徒信条を告白するごとに、主イエスへのペトロの信仰告白の場に立ち帰ります。ペトロは、湖で魚をとる漁師でした。ついてきなさいと言われて、主イエスに従った一番弟子でした。それゆえに「あなたは、キリストです。」と言うことができました。
でも、この弟子の歩みは既に、誇らしいものではなかった。主イエスの行動が人々の期待と、かけ離れていたからです。メシアに期待するものと違っていました。
混乱の時代、それは強いリーダーを求めるような時代です。群れがバラバラになって喘いでいるような時代。マルコ福音書は、そんな時代に惑わされないように、主イエスの示す新しいリーダー像を伝えます。
今日の場面で、主イエスはフィリポ・カイサリア地方にいます。ここは、エルサレムより北のガリラヤ地方、そのさらに北上した所です。なぜか。主イエスをよく思わないヘロデの使いやユダヤ人当局から、主イエスは逃げているんです。
そして、追っ手が来ないような所まで来て、弟子たちに訊ねました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
そういう緊張感の中で、最初の信仰告白がなされました。
「あなたは、メシアです。」
そうして、主イエスは、神の子にしかできない闘いを受けられました。
ここから、エルサレムへと南下します。人の子は、必ず多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、三日の後に復活すると。主イエスが自身を「人の子」と言われたのは、高い方がへりくだっていることの表れでした。それは敵対する者へ自分自身を与えてしまうことでした。
ある牧師は、日本のキリスト者の最大の問題は、ファリサイ派的信仰だとおっしゃいました。人を裁くことで信仰を守っていると思い込んでいる。キリスト者ではない周囲の人や家族を裁いてしまう。あなたの冷たさは、キリストの愛を知らないからだろうと。
でも、そう口にしている時点で、既にキリストから離れているのです。なぜなら、主イエスは長老、祭司長、律法学者たちから排除されましたが、主イエスが彼らを排除して地上から根絶することはなさらなかったからです。
そのような方法では、人間の救いは完成しないことを知っていたからです。
私たちが他の人間を裁いてしまう、そんなファリサイ派的根性の方こそ叩き潰すため、主イエスは命をかけられました。ペトロは、驚きます。これが、メシアのなさることなのだろうか…。このお方は、自ら死のうとされている。
それで主イエスをわきに連れ出して叱りますが、逆に、主イエスから叱られる。
「サタン、引き下がれ。」
主イエスをメシアであると告白した直後の悪魔呼ばわりです。
きついものがあります。もう少し、間を置いてもよいのではないか。
マタイ福音書では、同じ場面でも「あなたは幸いだ」とペトロに言う主イエスの姿があります。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」 (マタイ16章17節)
でも、マルコ福音書は、そう伝えません。
信仰告白したペトロに「あなたは幸いだ」とは言わない。即座に叱りつける。
「サタン、引き下がれ。」
私たちは戸惑います。それでも私は、信仰告白の後すぐに、このように叱ってくださる主イエスの言葉があって、ああ、よかったと思いました。
確かに、私たちは、信仰告白を喜びとします。
主のもとで、新しく生きていくことができるからです。
しかしながら、いつしか信仰の高ぶりが起こって、いつのまにか人を裁くようになってしまう。人間の思いが出てきてしまうことが、しばしば起こります。むしろ、そのような時こそ、注意が必要なのです。
「サタン、引き下がれ」という主イエスの言葉は、私たちを高ぶりから降ろします。
降ろすだけではありません。この「引き下がれ」は、私の後に行きなさい、後に下がって、安心して行きなさいという、主イエスの慰めの響きを持っています。
病を患っていた者たちに、あなたの罪は赦された、家に帰りなさい、安心して行きなさい、と言われたようにです。
わたしの後に従いなさい。
わたしが前に立つ。
そうおっしゃって、主イエスが、私たちの前に立っているのです。
神の子が人の子として、高き者が低い者として。一旦は、エルサレムから遠く離れました。そして、この地から身を低くして、主イエスは、メシアとして、エルサレムに向かって進んでいく。十字架に向かって歩んでいきます。
この危機の時代に、神がいないと言われるような時代に、主イエスは受難を受けられました。
神の御心がこの地になりますようにと。私たちは驚くことになりました。
イザヤがあらかじめ告げていました。これから起こる新しいことを知らせよう。
隠されていたことを知らせよう。
主が苦しみを受けることで、私たちは、はっきりと知らされたのです。
(2022年3月20日 受難節第3主日礼拝 説教要旨 伝道師 片岡賢蔵)
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