落ち着いて仕事をし、パンを食べる

聖書 コヘレトの言葉 3章1〜13節テサロニケの信徒への手紙二 3章6〜13節

 教会の愛する兄弟、柴田昭さん、石山徹さんが相次いで逝去されました。私たちは驚きと寂しさの中にいます。

 太平洋戦争が終わろうとするとき、14歳の少年が、キリストに結ばれた。後に医者として学校の先生として、文字通り天職と思うことができたと、労苦し仕事を愉しみながら、91歳の生涯を生き抜かれた。柴田昭さんです。

 1975年、別の青年は、この地に新しい会堂が立ち上がるのを感動のままに見つめ、この教会で結婚式を挙げた。人々に生活の燃料を注ぐガソリンスタンドの経営をし、愛する妻と共に70歳の生涯を生き抜かれた。石山徹さんです。

 誰にとっても終わりがあるのを知りながら、私たちは、その時が、いつか知りません。聖書は、それは空しいことではないと言います。「何事にも時があり、天の下の出来事には、すべて定められた時がある。」神が知っておられるからです。神が、すべて意味を与えられた時がある。

 そうして、いくつもの時を数え上げるなら、私たちは空しさの中にはいません。私たちは安心して、いつでも神に応答します。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

 テサロニケの信徒への手紙一の終わり近く、命じられている通りです。主の守りの中にある高揚感に満ち、力強い言葉です。命じられて教会員は一致して、この世に前進していく。

 ところが、使徒パウロの送った、この手紙には続きがありました。手紙二に視線を移していくと、一転して私たちをざわつかせる嵐が起こっています。怒りの警告が響いています。挑戦的な文言がある。10節は象徴的です。「働かざる者、食うべからず。」

 よく誤解を生む箇所です。その意図は、ただ働きたくないから怠惰に暮らそうとしたのを、戒めているのではありません。主イエスに救われた者として、現世を生きること。それがどういう意味なのか、人々が見失っていたことへの警告なのでした。世の終わりに、再び救いの主イエスが来られる。素晴らしい事態が迫っている。この希望があるなら、もう働くことはない。そう判断してしまう者たちがいたのです。

 さらに、11節「余計なことをしている者がいる」のです。本来の与えられた務めをせず、余計なことをして、動き回る者がいる。それが教会の秩序を崩す。私たちは救われたのだと享楽的なふるまいに陥っている。「いつも喜んでいなさい」を自己流に解釈している。それは誤った考えだと諭すのが、本来の文脈です。

 むしろ、パウロは、働いてパンを得ることの中から、希望を抱きつつ、今の世を生きるキリスト者のふるまいを見出そうとしました。実際に福音宣教をしながら、夜昼大変苦労して天幕づくりの仕事に取りかかりました。度々、こんな思いも、よぎったでしょう。「本来、こんな仕事をしている場合ではない。私にどれほどの時間が残されているだろう。教会が心配だ。」

 私たちもしばしば、そのような思いを抱きます。もっと集中できたらいいのにと。「聖書は素晴らしい。しかし今は忙しい。ああ邪魔が入らなければ、もっと聖書を読んで祈れるはずだ。」しかし、悲しいことに、私たち、時間の余裕ができたといって、祈りはじめることは、ほとんどありません。むしろ、容赦無く邪魔が入り、自分が本当に苦しめられる困難にいるときにこそ、神に祈り始める。

 「天の父よ。私を憐れんでください。」どうすることもできなくなって、神の言葉を探し求めるのです。

 ぼんやりと時が過ぎるのを待っても、何も意味を見出せません。だから、パウロは呼びかけます。「落ち着いて仕事をしよう。」落ち着くとは、目の前の事に集中すること。仕事は、与えられた目の前の事に、集中する時間をつくり出します。高揚感に舞い上がらず、冷静着実に一つ一つの仕事に取りかかっていく。今、現在に集中して生きる時、人は喜びに満たされます。現代人が、ストレスを抱え、幸福感を得られない要因の一つは、今に集中できず過去や未来にばかり意識が向いてしまうからです。

 でもキリストに結ばれた者なら、知っています。明日を思い煩う必要はない。失敗した過去や将来の不安に振り回されなくていい。そうして、今に集中し、日々のパンをいただきます。地に足をつけた仕事をする生活の狭間で、心からの祈りが生まれ、神に感謝し、礼拝する姿勢が、つくり出されていきます。

 「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」

 感謝してパンを食べよう。ならば、落ち着いて仕事をしよう。それが神から与えられた日々を丁寧に生きるということでした。労苦の日々にこそ、人は幸せを見出す。コヘレトの言葉です。

  「見よ。私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだす事である。……これこそが神の賜物である。」

 信仰を抱いて仕事に励み、今は眠りについた多くの先達が、その喜びを証しています。

(2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝 説教要旨 伝道師 片岡賢蔵