一致

聖書 エゼキエル書 37章15〜28節コリントの信徒への手紙 一 1章10〜17節

 コヘレトの言葉3章1節から4節に次のような言葉があります。新しい訳、聖書協会共同訳でお読みします。

 「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。/

    生まれるに時があり、死ぬに時がある。/植えるに時があり、抜くに時がある。/

    殺すに時があり、癒やすに時がある。/壊すに時があり、建てるに時がある。/

    泣くに時があり、笑うに時がある。/嘆くに時があり、踊るに時がある。」

 相反する行為を指し示す言葉によって「何事にも時がある」ことを教えます。教会に起こる出来事も世の人から見れば、天の下にある全ての出来事と同じ。それは、いくつもの時を経て与えられ、様々な形で見ることができる世の現象なのです。

 しかし、この世の現象は、聖書的には神のご支配の下にあります。人間の働き、抗えない力の働き、悪の力とも言える働きがありますが、最後には神がお決めになられます。この前提をもって預言者、使徒たち、教師たちは神のメッセージを語ります。良い時も、悪い時も、反対される時も、歓迎される時も、神の御心と神の心に向かう人間の心を示してみせるのです。

 今日は初代教会に関わった教師たちの名前、教会の信徒たちの名前が記されるコリントの信徒への手紙一1章を読みました。伝道者、福音宣教者であるパウロは、教会に起こった問題を伝え聞いてメッセージを送っています。教会では、いわゆる分派争いが起こっています。おそらく教会の「成長しない時」であったと思われます。その前には成長する時が、この教会にあったのです。その後、成果が上がらない、成長が止まったように見える時があったのです。この時、最初にこの地で福音を伝えたパウロも、名前があげられている伝道者アポロもコリントにはいませんでした。

 アポロは優れた語り手でした。雄弁家として、使徒言行録に登場します。出身はエジプトのアレキサンドリア、古代最高と言われた大図書館があった都市でした。アポロは小アジア・エフェソの地でパウロの仲間たちに出会い、キリストを宣べ伝えるため、アカイア州のコリントに入りました。きっと多くの豊かな言葉を持って、ギリシア地方の伝道に励んだのです。

 このアポロが分派争いのきっかけにされたことが手紙から伺えます。「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」と言う人たちが現れ、更には「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」と主張するグループが教会に現れたというのです(1章12節)。パウロは手紙の中で、この問題を繰り返し指摘しています。3章5節、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長をさせてくださったのは神です。」

 成長する教会の姿があり、そこにパウロもアポロも組み入れられていたはずなのです。手紙の16章には、アポロが今は他の伝道他に行くためにコリントに戻る気持ちがないのだということが、パウロの口から告げられています。この時、アポロとパウロは変わらず、同労者、仲間同士です。このケースでは、パウロとアポロが直接言い争っているのでも、パウロとアポロが分裂したのでもないのです。伝道者が去った後、教会が分裂したようにグループが分かれる、危機的な状況と言えます。

 この状況の中、パウロは教会の人たちを愛しています。教会が堅固に成長すること、自分の仕事の成果が現れることを期待しています。注意したいのは、パウロが嘆きの中でキリストの名を口にしていることです。パウロは福音を宣べ伝えるためにイエス・キリストの名を伝えました。繰り返し伝えたに違いありませんが、パウロはキリストの名をむやみに繰り返すこともありませんでした。キリストの業を説明する時、キリストの名を大切な名として述べたのです。そのパウロが、1章13節で「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と嘆いてみせます。更に続けます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。」パウロは自分さえも犠牲になったような気持ちで言うのです。そして戒めのように問いを投げかけています。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と。

 「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10節)

 この言葉が聞かれた時のパウロの思いを、今日私たちは知るべきです。

(2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子

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