あなたは誰に仕えているのか

聖書 創世記 24章9~21節コロサイの信徒への手紙 3章18~25節

 コロサイの教会は、パウロの愛に学んだ教会でした。公然としてある奴隷制、女性が見下される男性優位の社会、教育を受けられない子どもたち。弱者が弱者のままであり続ける。そんな世界の只中で、まことの主にお仕えすることが、どういうことなのか問い続けた教会でした。

 だから「知恵を尽くして、互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神を褒めたたえなさい。」そのことを何より求めた教会なのでした。コロサイの教会にとって、信仰とは立派な理想を掲げ、何だかよくわからないが素晴らしい精神的な心の支え、というのではなかった。愛の実践でした。そこで、唐突に家庭訓が挟み込まれます。教会として整えられるのは、まだこれからという古代教会の時代、信仰の生活の中心は家庭にあったからです。家庭の中に祈りがあり、神さまへの感謝がありました。

 現代、私たち自身の家庭を顧みますと、何らかのおかしさを抱えていると誰しも思っています。よそと比べて、私の家庭は、うまくいっていない。問題だらけだ。家庭は人間と人間が嫌でもぶつかり合わなければ生きていけない場所だからです。見かけは整えたつもり。でも私たち本当の姿は、もっとボロボロなんじゃないでしょうか。誰かが誰かに従うことで、まとまっていく居場所。誰かが傷つき、その傷を見せつけられる場所。そのことで最も深い傷を負うような場所。それが家庭なのです。ズキズキと痛みが走る。

 きっと古代の人々も同じでした。家族として集められた者たちが、傷を負いながら共に生活する。そこに互いを思い合う愛の教えが通されたのです。「妻たち」「子供たち」「奴隷たち」これら弱い者たちに「仕えなさい」と教える一方で、「夫たち」「父親たち」「主人たち」に愛しなさいと呼びかけています。と同時に教会は「仕えること」の意味を研ぎ澄ませていきます。すべての私たちに、あの、まことの主がいらっしゃるではないかと。「あなたがたは、主キリストに仕えている。」

 だからこそ、聖書は言い切ります。「どんなことについても肉による主人に従いなさい。」「人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」ここで、私たちは落胆します。現実は、あなたの上に立つような人に従え、ということかと。女性や子ども、雇われ人は黙って従えと言うなら、状況は何も変わっては、いやしないではないかと。もちろん現代の私たちには、文字通りの奴隷は、いないことになっています。けれども、家庭という生々しい現場で、支配され支配するような関係が、繰り返されている。家庭の延長にある職場も同じです。この風景は、2000年前から、大して変わっていないのです。そして、今日もまた、私は生活のために誰かに仕えている。誰かの命令に従っている。一体、教会は何をしているのか。教会は奴隷制を認めてきた歴史もある。女性に対する差別も依然として残っています。確かに、そうなのかもしれません。

 しかし、それでもなお、聖書は、神さまの秘められたご計画を見せています。キリスト者として生きるあなたに、もう一つの隠されていた景色を見せているのです。教会は、もっと人間を根底から縛り付けるものと闘っているのだと。あなたの生活を、丸ごとつくり替えてしまう呼びかけをしている。私たちが、今日も誰かしらの人間に仕える、まさにその場所で、主からの問いかけを聞くからです。「あなたは、誰に仕えているのか…」「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」

 それこそが、主イエス・キリストに仕えることで始まる、新しい生活なのでした。人間を人間の下に縛り付ける恐れから、解き放つことでした。私たちの視線は地を突き抜けて、天におられる主を見上げることができるのです。救いが、この私に及んでくる。この私のために十字架の上で死なれたキリストは、もうここにはおられないのです。私たちの顔を上げさせること。それが天の父の秘められたご計画でした。

 だから、私たちは、この主に仕えることの自由を手にして、それでも肉による地上の主人のもとに留まります。真心を込めて従います。なぜなら、キリストに仕える者は、もう人にへつらう必要はないからです。うわべだけで仕える必要もありません。ただキリストに仕えるようにして、生々しい闘いの場に留まる。そうして、最も傷を受ける場所を変えていきます。家庭の生活を、愛の実践の場に変えていくことができます。

 今も昔も、愛は、家庭の中で育まれてきました。主がそうなさるように、親が子に良き助言を与え、正しい道に導くならば、子は、どんなに絶望的な状況におかれても、顔を上げて、天を仰ぎみることができます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」。そう自らに注がれている希望を持ち続け、平和の実現を待つことができます。

(2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝 説教要旨 伝道師 片岡賢蔵