イエスの名による祈り

聖書 歴代誌 6章12〜21節|テモテへの手紙一 2章1〜8節

 祈りはキリスト教でなくても、他の宗教や文化においても祈られるものです。祈るという行為自体は、キリスト教に特有のものではありません。「願い求める」という事柄でいうと、もっと一般的で、現実的に必要なものが満たされるよう皆が願います。星に願う、七夕の短冊に願い事を書いて願うということもあります。「平和を祈る」と口にする人も多くなりました。祈り求める心は人々の中に、普遍的にあります。祈りというテーマ自体は、親しみを持ちやすいものだと思います。

 しかしキリスト者の祈りとなると、やはり独特なものがあります。イエス・キリストの名によって祈るからです。祈り始めは、天の父なる神さまへの呼びかけ。最後はアーメンと結ばれます。このアーメンとは、「その通りです」という意味です。このアーメンの前に「イエス・キリストのお名前によって」と言い、イエスの名が添えられるのです。

 この祈りについて、水曜日、祈祷会でも学んでいます。ウェストミンスター大教理問答の学びの中、問178からのテーマがちょうど祈りなのです。罪の告白や神への感謝がある、自分の願いだけでなく、他者のためにも祈る、とりなしの祈りを祈るというのが、キリスト者の祈りの要素です。そして何よりも祈りは「イエス・キリストの名によって」祈る、そうであるので、神に聞き届けられると教えられるのです。

 ここに、私たちの信仰が言い表されています。私たちは、イエス・キリストの名前以外によっては、祈れないのです。

 牧師や伝道師であればキリスト・イエスの名によって祈ることは自明のことです。疑問や躊躇なく、信仰の表明として、その名によって祈ります。このキリストに信頼することによって働きを与えられているからです。ただし、信仰者としての歩みの中で、キリストと自分との関係について立ち止まってしまい、考えることがあったとしたなら……イエスの名による祈りは、「なんでこの名前を通して祈らなければならないのだろう」と、疑問に思う祈りとなるかもしれません。

 以前教会で出会ったある人はイエス・キリストのことが分からない、神さまのことなら分かると、牧師である私に度々おっしゃいました。ある人は、なぜ教会では一人で祈らず、皆で集まり、時には輪になって、複数人で祈るのかと、祈りの場についての素朴な疑問を私の前で口にしました。もっともな疑問かもしれません。かつては神に祈りをささげるという時には、どの神に祈るかが重要でした。イスラエルの民は唯一の神に祈りをささげていました。この神は、祖先の信じた神で、アブラハム、イサク、ヤコブの神とも呼ばれていました。この神に祈ることが重要だったのです。ソロモン王が神殿を建て、エルサレムを中心に、祭司を通して祈りがささげられるようになりました。

 民の祈りの言葉を受け継いで、キリスト者も同じ唯一の神に祈りをささげています。どの神に祈るかは、私たちにとっても重要なのです。しかしそれだけでなく、その祈りに救い主の名が付されるようになったことが、私たちにとって特徴的なことなのです。キリスト者またキリストを頭とする教会は、いわば「キリスト中心」です。それは私たちがイエス・キリストによって全ての人のために働く神を知るようになったからです。このキリスト抜きには、私たち自身の救いも他者の救いもないと考えるからです。

 キリストとの関係をいつも思い起こして祈るよう、私たちには祈りの言葉が与えられたのです。だから具体的には、王たちや高官のため、為政者のために祈ることもできるし、全ての人々の救いを信じて、希望を持って祈ることができるのです。

 テモテへの手紙一の2章1節から7節は、ウェストミンスター大教理問答の他にも、祈りの教えにおいてよく参照されるところです。『日本基督教団式文(試用版)』の中にも、とりなしの祈りの注記として以下の言葉があります。「教会とすべての人々のために神の恵みを求める。これは、キリスト者の大切な務めである(Iテモテ2・1〜7)。世界に広がる神の教会のため、世界と我が国のため、為政者たちのため、地域社会のため、苦難の中にある人々のため、その他、助けを必要とする人々のため。」

 天の父と共に執り成してくださるイエス・キリストの名によって、私たちは真実を見、祈りの場を見出しています。その場所にいつも立ち返ることができるよう、神は私たちを召し出してくださったのでしょう。神は祈りを聞くだけでなく、このイエス・キリストの名による祈りを喜んでくださいます。

(2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子)