神が貧しくなられた

聖書 申命記26章1〜4節 | コリントの信徒への手紙二 8章8~9節

 伝道者パウロは、何度もコリントの教会員へ手紙を送って、キリストの福音から離れないようにと呼びかけました。「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。」そこまで書いてきて、パウロは献金を呼びかけます。もちろん、お金を出しなさい、と命令するわけではない。自発的な思いから捧げてほしいと。ここに牧師としての配慮があります。しかし、次の言葉は鋭いものです。「あなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」あなたがたの愛に、偽りがないかを確かめよう。あなたがたの愛が本物であるかどうか。ドキリとさせられる言葉です。誰だって、お金のやりとりにはシビアになります。生活がかかっているからです。手元にあるお金を誰か別の人にあげようとするなら、自分が不足してしまうのが目に見えて明らかです。だからこそ、そこのところで、偽りのない愛が確かめられるのです。

 ここまで、パウロは献金のお願いをする手紙を書いていて、その最中、ふと手を止めたのでしょう。唐突に、天を仰ぎます。そして、全く献金のことから離れて、パウロの中に、ふっと言葉が沸き起こります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられました。」献金を通して、偽りのない愛とは何か?を考えるとき、パウロの筆は、私たちが、どうすべきかではなく、主イエス・キリストの恵みへと走っていくのです。

 実は、この言葉、クリスマスのときの言葉です。今は6月の梅雨の時期。私たちが、クリスマスに思いを巡らす事は滅多にありません。けれども、本当は、主のご降誕を、もっと日常的にお祝いして良いのです。本当に、主は来てくださった。「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」はじめ、主は豊かでした。なのに、貧しくなられた。神さまは、すべてにおいて豊かな方です。グロリア インエクセルシス デオ。神さまは、高く、高く、ずっと高く、神さまであることを、止める事はありません。にもかかわらず低く降られ、人間になりました。「(キリストは)かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2章7〜8節)」高みから自らを投げ捨てられたのです。

 なぜ神は、これほどまで偽りのない愛を全うされるのか?それは、この要因がどれほど深刻であったかを浮かび上がらせます。私たちに深刻な要因があるのです。人間の悲惨さが、どれほどのものか。人間の罪が、どれほど償いきれないものか。切迫した事態のため、神は貧しくなられたのでした。「彼が自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられた。多くの人の過ちを担い背いた者のために、とりなしをしたのはこの人であった(イザヤ書53章12節)。」神の御子イエス・キリストが十字架の上で成し遂げられたことでした。

 宗教改革者ルターは、これほどまでの神の恵みによって、私たちは「キリストを持つ」と言いました。だから、まっすぐに、手を差し出してほしいのです。キリストを、少しも漏らさずに受け取って欲しいのです。あなたに豊かになってほしい。どうかキリストを持ってください。キリストが貧しくなって、本当にわたしの僕となってくださったということを信じる、このとき、私たちはキリストを持ちます。なんと驚くべきことでしょう。キリスト者とは、キリストを持つ者たちのことなのです。これが、私たちに与えられた豊かさでした。私たちは、偽りのない愛を得て、豊かになります。このことは必ずしも目に見えない恵みだけを言うのではありません。もっとよくキリストを持つことを見つめてください。目に見える豊かさがあるのです。

 それは、教会です。新潟市中央区東中通一番町に立つ、この教会です。私たちの教会、東中通教会です。目に見えています。ここで私たちは、たとえ血のつながった家族でなくとも、仕事を共にする仲間でなくとも、気のおけないなかよしでなくとも、主イエス・キリストによって結ばれた兄弟姉妹を得ています。12名の長老たち、事務の奉仕を担う者たち、礼拝、奏楽、お花、清掃、教会学校、幼稚園、実に様々な奉仕によって、世の中の悲惨さに対抗しています。豊かで偽りのない愛を得て、東中通教会は、世に対して前進し続けています。わたしは何もできていないという人もいるでしょう。それでも、祈ることができています。聖書を読んで、賛美することができています。神を共に礼拝することができています。私たちは、新しい神の家族が、くっきりと目の前に表された豊かさを持っています。キリストを持ちます。神の豊かな恵みのゆえに、貧しい私が捨て去られて、キリストが勝利してくださったからです。

(2021年6月20日 聖霊降臨節第五主日礼拝 説教要旨 伝道師 片岡賢蔵)