神がご覧になる道

聖書 サムエル記 下 1章24〜27節|ヨハネによる福音書 14章1節〜11節

 「この道」という童謡があります。「この道は いつかきた道 ああ、そうだよ」という歌詞。山田耕筰作曲、北原白秋作詞だそうです。「この道」はどの道なのか、時々、話題になります。英語では「a road」(ア・ロード)。その道が、どの道か、特定はされていません。今日の聖書箇所には、「道」という言葉が繰り返されています。4節、主イエスの言葉「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5節、トマスの問い。6節、イエスの宣言「わたしは道であり、真理であり、命である。」英語では「the way」(ザ・ウェイ)。

 「その道」とはどの道のことなのでしょう。13章から、いわゆる「洗足」と「最後の晩餐」の記事です。主イエスを裏切ることになるユダが、受け取ったパン切れを持って出ていきます。主は、この受難の時に栄光を受けること、また父である神も栄光を受けることを弟子たちに告げます。送別説教が続きます。祈りも含めると17章まで。主イエスは神のもとから来て、神のもとに帰る。孤独に死んで、栄光を受ける。主イエスが語る「その道」は、キリスト・イエスの辿る受難と栄光への道なのです。

 主イエスの辿ったその道中で、主は弟子たちを愛し、愛しぬかれました。その出来事を私たちは主イエスの言葉と福音書の記事から聞き、受け止めます。主の弟子たちは、主と共に受難の道を辿ることになります。それは神が見出された道でした。しかし弟子たちはイエスに特別な使命があることをまだ理解できません。いつまでも自分たちの側にイエスを引き止めようとします。

 ペトロはイエスに尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(13章36、37節)疑い深いトマスもこう聞きます。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょう。」(14章5節)フィリポは、イエスに対して、切なる願いを発します。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」(14章6節)まるで祈りの言葉です。こんな声まで聞こえてきそうです。「イエス様、父なる神を今すぐ示してください。私は、私たちはあなたの側で、満足できないまま、祈り願っているのです!」

 弟子たちは主の言葉を聞いて、主イエスが離れてしまうということも予感していました。弟子たちは、主と共に苦しみを受ける覚悟をそれぞれ持っていたはずです。信仰だってありました。ただ、そこには「弟子たちの無理解」というテーマが、なお横たわっています。弟子たちはきっと、主の愛や使命を理解できなかったのでしょう。しかし主の愛は、そこにありました。

 主は弟子たちに言われました。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない……今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(6〜7節)「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(9節)

 ヨハネ8章14節には次のようにありました。「あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」それが今日の箇所では、次のように変わっています。「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」ヨハネによる福音書には、「知らない者」が「知る」者へと変えられるというメッセージがあるのです。

 主イエスは、ご自身が「神のもとから出て世に来た」こと、「父のもとに行く」ことを弟子たちにはっきりと語り、知らせます(16章27、28節)。「その道をあなたがたは知っている。」それゆえに、父なる神のもとに帰る。私はあなたがたに自分をしっかり示したよ、と。「その道」を辿る者には、神の愛が貫かれて「ある」のです。

 これが、神がご覧になった道、主イエスと弟子たちとの宣教の旅でした。父なる神がご覧になる道が、主イエスの言葉と業が語られる所に、敷かれています。

 「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)。10節、11節にも「信じなさい」が繰り返されています。主イエスは告げておられます。父へと至る道、ご自身によって備えてくださる場所があると。「心を騒がせるな。神を信じなさい。……わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(1〜3節)人々に対しても、私たちにも、この道、このメッセージが届けられています。

(2021年5月2日 復活節第5主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子)