まさか、わたしの身に起こるなんて

聖書 イザヤ書 65章17〜18節|コリントの信徒への手紙一15章12節〜20節

春、重たく立ち込めていた鉛色の雲が取り払われて、青空が広がっています。その空のもと大地に根を張った大麦が、穂を実らせて、すっくと立っている。冬の間、じっと耐えて最初に畑になった実り、初穂。この初穂を合図に、あたり一面たわわに実った麦の穂が広がっていきます。豊かな収穫の時が、やってくる。伝道者パウロが伝え、私たち教会に集う者が見ている光景です。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」この地に、私たちのすぐ近く、神の国が始められました。

ですが、パウロは「しかし、実際」と重たい雲を取り払うようにして、強く言わなければなりませんでした。私たちの目を曇らす罠があるからです。この罠は、ある二文字で表されています。19節の中にある「だけ」という文字です。「この世の生活でキリストに望みをかけている『だけ』だとすれば、わたしたちは全ての人の中で最も惨めな者です。」ちょっと分かりにくい文章かもしれません。この「だけ」は、どの言葉を修飾しているのか。「この世の生活で」だけなのか、「キリストに望みをかけている」だけなのか。どちらの意味にも読めます。歴代の教会によっても解釈は分かれたようです。そして現在、大半の解釈者は「この世の生活で」にかかる言葉としています。この世の生活の中でだけ、キリストに望みをかけているとすれば、わたしたちは全ての人の中で最も惨めなのです。この世の生活だけを見るなら、人は体が死んだら終わり。それで開き直ってしまう人々がいます。「どうせ明日は死ぬ身だ。飲み食いしようではないか。」

しかし、そうすると「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまう。」とパウロは警告します。死者の復活などないというのは、この世だけを見る誤った福音だと。パウロは、こう言っているようです。あなたたちは、キリストの復活は認めているのですよね。なのに、私たち人間の死者の復活は認めない。キリストの復活と私たちの体の復活とを分けてしまった。パウロは教会の中に入り込む、そんな誤った理解に、13節から19節に至る一連の流れで、ノーを突きつけます。この世の生活だけに立つなら、私たちのしていることは無駄である。偽物だ。空しく滅んでしまい、最も惨めな者たちだ。神の働きが私の身に及ばないのだから。

違うでしょう。私たちの教会が見ているのは。この世の生活だけではないでしょう。教会とは、この世にありながら地上に降りてこられた主イエスを通して、神の恵みの中に丸ごと入れられるところです。まだ世の多くの人々が見ることのできない豊かで広いビジョンが教会には開けている。神の国の始まりを見ているのだから。

だから、教会が本当にお祝いしなければならないのはキリストの復活だけなのではありません。「まさか復活が、わたしの身に起こるなんて」を祝うのです。キリストの復活とわたしの体の復活とはつながっています。死んでいく私たちに先立って、キリストは墓の中に入り、この私の体を背負って、死から命へと引き上げられるのです。闇へと歩む私たちの向きが全く逆方向へと変えられます。回れ右をさせられて輝かしい神に向かう。そうして、私の中に光が差し込んできます。この完全なお方に包まれているということ、それが本物の福音です。本物の福音は、ほかの何かには決して替えられません。

ですから、私たちは、この世の生活だけという罠を取り払うようにして、キリストに望みをかけていくのです。望みをかけるとは、すなわち、キリストの名によって神に祈ることです。目を閉じて、自らの体と生活とをキリストに傾けていくのです。祈ることで私たちの視界は開かれ、世に逆らって、すっくと立ち上がるキリストの姿を見ます。20節、ここが新しい出発点。それまでの13節から19節に向かうのは、復活を信じない者たちへの恐ろしい負の連鎖でした。しかしパウロが言いたいのは、本当はそうであってはならないということ。否定の否定です。つまり実際は、この流れを逆さにして引っ張る神の働きがあるのです。

今日は最後に、聖書を後ろから前へ、逆さまに読み進めて、生きて働く神を見ましょう。19節、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者ではなくなる。全て一切において、キリストに望みをかけているから。18節、キリストを信じて眠りについた人々は復活し、17節、あなたがたは、すでに罪の中にはいない。あなたがたの信仰は、むなしいものではない。キリストが復活したから。16節、キリストが復活し、死者も復活する。

豊かな麦の実りが広がるように、初穂となったキリストが人を死から命へと押し返していくのです。まだまだ続きます。

15節、わたしたちは、神がキリストを復活させたと言って証しをしました。本当に死者は復活したので、わたしたちは神の証人と見なされます。14節、あなたがたの信仰は無駄ではない。わたしたちの宣教も無駄ではない。なぜならキリストは復活したからです。もう何度でも言おう。13節、キリストは復活した。そして死者の復活、それがある。

(2021年4月11日 復活節第二主日礼拝 説教要旨 伝道師 片岡賢蔵)