2021年3月21日主日礼拝説教

説教「義のために迫害される人々は幸いである」 牧師 福井博文

聖書 詩編34編9~21節 マタイによる福音書5章10~12節

主イエスは八番目の祝福で「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とお語りになり、義のために迫害される人々にも天の国が約束されていることをお約束になりました。そして九番目の祝福も何故か同じように義のために迫害される人々の幸いを繰り返し、これを強調されました。

「迫害」と訳される言葉はギリシャ語で「追う」「探索する」という意味です。ですからキリストと弟子たちに反対する人たちがどこまでも追いかけて来て誹謗、中傷、暴力を繰り返すということです。現代の日本の社会においてはキリスト教に対してある程度の理解がなされ表立っての迫害はありません。しかし、以前はキリスト教は家庭の平和や一致を壊すものとして警戒されることがありました。

神の御子であられる主イエスがユダヤの国にお生まれになったのは、わたしたち人間を罪から救うためでした。主イエスがもたらされた救いは、単なる教えや理屈ではなく、人間として「まことの神を信じ、感謝のうちに生きる者となること」が本当の意味での救いでした。主イエスはこの神の救いを得ることを可能にしてくださったのです。そしてこのことのために働くことを「義」と表現されたのです。

主イエスは、神の義を全うし、同時に、人間も義とされる救いを地上において推し進められました。具体的には、貧しい人々、障がいを持つ人々、漁師、動物屠殺業者、徴税人、売春婦も、やはり神に愛されており、人として生きることが許されているということを広く知らしめようとされたのです。

このような信仰理解のゆえに、主イエスは、既存社会の既得権者から誹謗、中傷、侮辱、嘲笑を受けられました。最後には、裸にされ、むち打たれ、十字架につけられ、さらしものにされました。ユダヤ人にとって、木につるされる者は神に反逆した者、神に呪われた者でした。ローマ人にとっては、木に張り付けられ、さらされた者は、帝国に反抗する身の程知らずの愚か者でした。主イエスは、ユダヤの国から捨てられ、ローマの帝国からも捨てられたのです。主イエスは、これまでの人間が経験したはずの迫害を、最も深刻なしかも徹底した形でお受けになられたのです。

ローマの信徒への手紙の5章6~8節には次のように書かれています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

法律を守る正しい人はいます。人を喜ばせる善人もいます。しかし、神の義(完全な形で神を満足させること)を全うできる人はいません。主イエスは神を愛すること隣人を愛することをご自分が十字架におかかりになるという仕方で全うされました。このことはわたしたちが本当に神を愛する場合かならず迫害を受けることをも意味します。

ここで「迫害される人々」という言葉について考えましょう。これは八番目の祝福ですが、実はこれまでの祝福と違っています。これまでの祝福はどれも「現在のこと」とされていました。

ところが今回は違いギリシャ語の原文では「これまで迫害されて来た人々」となっています。今まで続いていた迫害、今でもその結果が残っている迫害のことを言うのです。そうするとこれまで迫害を受けそれを耐え忍んで来た人々という意味になります。主イエスのあとの時代のことですが、かつて紀元325年にローマ帝国内のニカイヤで最初の会議が開かれたとき、318人の監督が集まりました。出席者の多くはそれまで長い間迫害されてきた教会の指導者たちでした。この出席者の中には、迫害のために身体に傷を負った者が少なくなかったと言われます。

そして「天の国はその人たちのものである。」と言われます。あなたがたは天の国の構成員ですと約束されます。わたしたちは不思議に思います。神の国と迫害と何の関係があるのでしょう。しかし、確かに神の側に立ち、神につける者として生きようとするとき、迫害に直面することになるのです。この迫害に耐えることは、わたしたちの信仰と品性を磨くことになります。そこで神は喜んでわたしたちを仲間として迎えてくださるのです。

主イエスは仰せになりました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口(あっこう)を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」主イエスはこのように語られ、わたしたちが勇気を持ってご自分に従ってくるように励まされたのです。

迫害と死を恐れるときわたしたちは神を愛する力を失います。そして隣人を愛する力も失います。勝ち目がなさそうなことは手控えるようになるのです。このときわたしたちはすでに負けています。わたしたちにとって重要なことは死を恐れないことです。死を恐れない勇気を持つとき、わたしたちは、はじめて義を行うことができるようになります。主イエスは仰せになりました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)

では主イエスが強調された「義」とはどのようなものなのでしょう。「義」はギリシャ語で、神に嘉納(かのう)される状態という意味をもっています。神に受け入れていただける状態のことを言います。他の言い方をすれば神に救われている状態です。

わたしたちは善を行うことと義を行うこととは同じような意味であると考えています。しかし、聖書によりますと、この両者は必ずしも同じではありません。使徒ペトロは次のように言います。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(ペトロ一3・13~14)

善は隣人を幸せにする行いのことです。新潟では、北前船の行き来で国内貿易を行い商いに成功した人たちが多くの人を雇い多くの賃金を支払い地元の人たちに大いに喜ばれました。善を行うとはこういうことです。善を行う人が嫌われ迫害に遭うという話はあまり聞きません。善を行うことは、今で言うヒューマニズム(人間愛)のことです。

これに対して、「義」は神の御前に「正しい」「真実」という意味です。神によしとされることです。ただこれは人間には不可能です。従って「人間の正しさ」というより「信仰によって神から与えられる神の義」という意味になります。「義」は信仰によって救われた者が、神から与えられているものなのです。

テモテへの手紙の著者は次のように言っています。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(テモテ二3・12)このことからわたしたちは「信心深く生きる」ということが「神の義を求めて生きること」だと気づかされます。

キリスト教の信仰を持とうとする人たちは、これまで色々な理由で迫害されました。キリスト教が成立した頃は、拝む偶像がないので無神論者だと言われました。聖餐を守るとき信者以外の人を集会室に入れなかったので、人の肉を食べ、血を飲んでいると言われました。礼拝において接吻する習慣があったため、不品行を行っていると言われました。

日本では、主イエスだけがわたしたちを救う唯一のお方であると教えたため、家庭の和を壊す宗教だと宣伝されました。当時は信仰生活のあり方が理解されず迫害されました。これ以外に、狂信的だといって迫害され、左翼思想に傾いているといって迫害されました。これらは本人の問題、個人の問題であり、教会が信徒に勧めたことではありません。現代でも似たようなことがしばしば起こるので注意が必要です。

わたしたちは、「義」というとすぐに隣人愛のことを考える傾向があります。貧しい人々、恵まれない人々、偏見と差別に苦しんでいる人々を支え、励まし、この人たちの人権と生活の向上のために闘うこと、これが「義」であると考えるのです。確かにこういうことが人間的な意味で「義」といわれるのは間違っていません。しかし、キリスト教の信仰における「義」は一義的には「まことの神を神とすること」「神を愛すること」なのです。

まことの神を愛することが迫害の原因になると言われると日本人のわたしたちには何のことか分からないかもしれません。そこで具体的な事柄として「十戒」のことを考えてください。十戒はまず見えないひとりのまことの神を信じることを命じます。そして「殺してはならない」「盗んではならない」と教えます。

実は十戒には「わたしたちにとって神を愛するとはどうすることなのか」が書かれているのです。キリストに救われ、まことの神に出会ったわたしたちは、神の真理、正義を愛し、手で造った偶像を拝まないようになります。これが「義」ということです。

多くの神を認めない、見える偶像を拝まないということが、そんなに大事なのかと多くの人たちは首をかしげます。実は偶像を拝むことは、おのれの腹を神とすることだと使徒パウロは言います。自分の成功を求め、自分の欲心を満たし、人々を支配しようとすることはわたしたちの中から沸き上がってくるものです。時には教会の中にも入り込んできますので注意しなければなりません。

最後に主イエスは「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口(あっこう)を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」と言われました。これが九番目の幸いです。旧約聖書の時代の預言者たちは真の神を宣べ伝えたために迫害されました。

わたしたち信仰者もかつての預言者と同じ立場かもしれませんが、ひとつ違っていることがあります。わたしたちの前を神の御子であられる主イエスがいつも歩んでおられるということです。主イエスはいつもわたしたちのお手本となり、弱った手を取り励まし導いてくださいます。わたしたちは決して一人ではないのです。

主イエスは神の義に生きる人々を祝福されます。迫害されるときに共にいてくださいます。主イエスは父なる神と共に生きることでその喜びを全うされた最初のお方でした。そのお方が、信仰の道を示し、人々を救いに導く働きをする者に「あなたがたは幸いである。」と仰せくださいます。そして「天には大きな報いがある。」と約束してくださいました。教会の牧師や長老の務めは、人々が神を愛する者になるように教え励ますことです。そしてしばしば迫害を受けることもあります。でもそれを「喜びなさい。」と主イエスは言われます。

詩編記者は言いました。「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。義のために迫害される者を、神は決してお見捨てになることはないのです。」(詩編34・18~21)

「主に従う人には災いが重なる。」と言われます。口語訳では「正しい者には災いが多い。」と訳されます。しかし「主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」と約束されるのです。

わたしたちはキリスト信仰のお陰でこの世で多くの信仰の友を与えられました。これは神がこころを込めてわたしたちにくださった宝物です。大切にしましょう。皆様の上に神さまの祝福が豊かにありますように。

(受難節第五主日礼拝 2021年3月21日)