2021年3月7日主日礼拝説教

説教「心の清い人々は幸いである」 牧師 福井博文
聖書 詩編24編1~10節、マタイによる福音書5章8~9節

 主イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と言われました。「心の清い」の「清い」とは、物理的に清い、汚れていないという意味ですが、祭儀的に清い、道徳的に潔白である、という意味もあります。これらは人間にとっていずれも重要な事柄です。主イエスが「清い」と語られたとき、この三つの内のどの意味で言われたのでしょう。「心の」が付いていますので、祭儀的な清めの問題でもないようです。残るは、道徳的に潔白ということです。従って、悪意がない、純真であるという意味になります。ただ、ここでは道徳的な清さというより、神を愛し、隣人を愛するという意味での清さで、信仰から来るものです。
 「神を見る」の「見る」は、目で見る、頭で見る、経験によって知るという三つの意味があります。主イエスはここではどの意味でお使いになったのでしょう。肉眼で神を見ることではないことははっきりしています。頭で見ることでもありません。形而上学的な理解によって神を見ることはできないからです。では経験によって知ることでしょうか。気づきを与えられるという意味ではこれが該当するといえます。正確に申せば、霊的に神を見るということです。「神は霊である。礼拝する者は霊とまことをもって礼拝すべきである。」と言われる通りです。
 旧約聖書には神を見た人が何人も出てきます。アブラハムはモリヤの山頂で息子イサクを捧げる時、神と直接に語らいました。モーセは十戒を与えられた時、神と顔と顔を合わせました。しかし、これらも本当に神の御顔を身近に拝したというより、神の真心に触れる経験を霊的にさせていただいたということでしょう。
 「心の清い人々」は、信仰に招かれている人たちのことを言います。信仰に招かれた人たちもその思いが清く、その行いが常に潔白であるわけではありません。それでも主イエスはわたしたちに「立ち止まらないで、ついて来なさい。」と励ましてくださいます。わたしたちは、主イエスが十字架におかかりになり、わたしたちを救おうとしてくださっていることに気づかされ、これまで感謝しながらついて来ました。実はわたしたちはすでに主イエスに出会い、神を見ているのです。
 次ぎに、主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と語られました。「平和を実現する人々」は「平和を好む人たち」という意味です。しかし、平和というものは、人間関係を成り行きに任せていて実現するものではありません。何故、わたしたちは平和を造り出し、維持することができないのでしょう。それはわたしたちが平和を造り出す努力を怠るからです。わたしたちは平和を求めていますが、その割りには自己の責任を果たすことを回避し、人任せにします。そして、結果を見て平和はなかなか実現できないと嘆くのです。平和の条件は、わたしたち一人ひとりが意識的に平和を造り出す努力を惜しまないでいることです。一人ひとりがわきまえを持ち、勇気を持って自己の責任を果たすことです。礼儀作法を保つことです。自分の利益や自分の正義を振りかざしていたのでは平和は望めません。
 「神の子と呼ばれる」の「子」は、実際に特定の父母から生まれた子という意味で、一般的な子どもという意味ではありません。「呼ばれる」は、「認められる」「通用する」という意味です。わたしたちはみな神さまの実子ではありません。ですから、ここで使用されているギリシャ語の意味は神の子として通用するようになるだろうということになります。ここでも平和というものがいかに大切かを知らされます。神の子、主イエスの祈りが平和であるとしたら、教会の祈りもそのようであらねばならないと思わされます。
 平和は、わたしたち一人ひとりが真の神の子である主イエスの弟子として真摯に悩み、考え、尽力するところに生まれてきます。留意すべきは「焦らず、慌てず、諦めず」です。平和は不断の努力の結果として、一時的にではありますがかろうじて得られるものです。それだけに貴重な宝物なのです。これは次の主イエスのみ言葉に関連して行きます。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」迫害されることを恐れないで平和を造り出して行きましょう。(受難節第三主日礼拝 3月7日)