神、現る

聖書 ヨブ記38章1〜18節 | ルカによる福音書12章13〜31節

ヨブ記の中で、最もスリリングなところです。ヨブは神の声を、ずっと待っていたのでした。ずっと待っていた。待ち望んでいたんです。

ヨブが38章に辿り着くまで、随分と長い道のりでした。ヨブは正しい人でした。しかし、とてつもない苦しみがヨブに襲いかかる。ヨブは、生まれた日のことを呪った。生きていたくないと嘆いた。そんなヨブに友人は、この苦しみには理由がある。あなたはこういうことをしたから苦しみを受けている。そもそも神の前に正しい人間なんていないと諭します。

いいや、ヨブは反論する。神がこんな苦しみを私に与えるなんて理解できない。神がいるなら降りて来てほしい。でも神は一向に現れません。議論が延々と続くのが37章までです。すると、がらりと急展開が起こった。神が現れた。

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」

私たちも、聖書を読んでいて神に訊ねたいことは、たくさんあります。この苦しみに意味はあるのか。神がいるなら、なぜこの世に悪いことが起こるのか。なぜロシアとウクライナの戦争を止めないのか。

でも、神はこちらの聞きたい問いかけには答えません。むしろ、訊ねてきます。

「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。」

 私たちは面食らいます。一体、このやりとりは何なのか。

ヨブ記を解く鍵は「知恵」にあるといわれます。ヨブ記は、旧約聖書の中で、知恵文学というジャンルに入ります。知恵というのは、格言、ことわざなどの言葉で表されて、世界はこういうことで成り立っていると知らせる。

 そして、人生の様々な問題に対処する処世術を知らせます。人間が代々受け継いできたものです。ですが、それだけではない。人間には知り得ない知恵があることをヨブ記は知らせます。

「では、知恵はどこから来るのか。…その道を知っているのは神。」(28章20、23節)

人間が人間の限界を知ること。そのところに、神の知恵があるというのです。この究極の深淵に、ヨブ記は到達します。神は人間の知恵及ばない圧倒的な創造の御業を語ります。わたしは、大地の基を築き、海を制御していると。特に注目したいのは次の箇所です。

「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。大地の縁を掴んで、神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。」

今までこんな風に考えたことはあるでしょうか。

 どのように、夜が明けて朝を迎えるのか。神は創造の日に一度だけ命令したというのではない。神は、日々新たに朝を呼び出しているんです。私たちが見落としがちなのは、こういうところです。神は天と地を創造され、7日目に安息された。でも、そこからずっと神は休まれているのではない。ずっと働き続けています。

漆黒の暗闇に包まれる夜から、神は、光をもたらす朝を呼び出す。そうして段々とオレンジ色がかったピンク色の朝の空が起き上がって来ます。神は曙にも役割を指示する。

「大地の縁を掴んで、神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。」

大地が、まるで朝食を並べる机の上のテーブルクロスのようです。朝と曙とが、この縁を掴んで、塵やほこりをパーンと払うように、暗闇の中で蠢く、神に逆らう者どもを払い落とすのです。

すると、大地は、灰色の粘土から緑豊かな彩りを浮かび上がらせます。もはや悪者たちが隠れて活躍することはできません。神は、そのようにして、日毎に大地を新しく装われる。

 たしかに、神は、夜の闇もあるがままにされます。再び夜が来れば、闇に紛れて活動する悪者がいる。それでも、神は、日毎に悪を払い落として清くするのです。

そもそも、ヨブに災難をもたらしたのは、サタンの仕業でした。でも、ヨブはサタンに立ち向かったのではありませんでした。神の言葉を聞くこともできない。そういう時でも、ヨブは神に向かって抗議しました。悪ではなく、答えずにいる神に目を上げ、ひたすら挑戦する信仰者の姿がここにあります。

 私たちは、なぜ苦しみを受けるのか、その答えを知ることはできない。けれども、いつでも神が働いていて、苦しみをもたらす悪を払い落とす。神は、混沌として世界が滅びに向かっていくのをよしとしません。命令によって秩序ある創造を行う。ヨブは悟ります。確かに主なる神のみがなさる御業だと。

「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」

 やがて、このヨブの待ち望む姿勢は、イスラエルの人々に与えられた信仰によって受け継がれて、メシアの誕生、イエス・キリストのご降誕へと向かっていきます。主イエス御自身が、おっしゃいました。

「あなたがたの父は、あなたがたに必要なことをご存知である。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」

 私たちに必要であるから、主イエスは、私たちのところに現れて来てくださいました。

(降誕前第9主日礼拝 10月23日 片岡賢蔵伝道師)

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