8月2日主日礼拝説教

説教題「神からの賞を得るために」 牧師 福井博文
聖書 詩編37編30~40節 フィリピの信徒への手紙3章13~16節  
 パウロは「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、」と語り、今のときを全力で神のために働き続けたいと述べます。「捕らえる」は、捕まえる、取り押さえるという意味です。パウロは「死者からの復活」をすでに捕まえたと考えませんでした。
 フィリピの教会を立ち上げたあとに訪れたコリントの教会では、すでに復活は終わった、すでに復活を成し遂げたと主張する異端的な考えの人たちが出てきていましたが、パウロはそのような行きすぎた考えを持ちませんでした。それより今は復活の主と共に、働き続けることが大切だと言います。
 パウロは続けて「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」と述べ、「今」という時を大切に生きることを勧めます。「後ろのものを忘れ」の「忘れる」は軽視すると言う意味もあります。パウロは、自分が歩んできた道のり、出会った人々のことを忘れましょうと言うのではありません。その反対に、パウロは自分が出会った人々と、自分がキリストのために成し遂げた働きと成果を心からいとおしく思い、その思い出を大切にしていました。
 ここで言う、「後ろのものを忘れ」は、過去の業績や思い出に満足してしまって、腰を下ろしてしまうことを戒めています。自己満足してしまわないことです。「生涯現役」という言葉があります。わたしたちも常に現役であることを心がけたいと思います。それが神さまの恵みに対する感謝の表し方です。
 パウロは続けて「前のものに全身を向けつつ」と言います。「全身を向ける」は、~に向かって外に伸ばす、という意味です。パウロは、自分が捕らえるべき目標をしっかり見つめ、全神経を集中させ、追い続け、走り続けると言います。パウロは、死者からの復活という目標を見定めていました。それは自分の幸せを確保するという意味ではなく、むしろ、神に喜んでいただくことをひたすら目指していました。
 別の言い方をしますと、復活の主イエスを目標に見定めていました。従って、パウロは明確な意志と見識をもって、主イエスのように考え、語り、行動していたのです。キリスト教の信仰においてとても重要なテーマは「今」と言う時です。
 フランスの作家ビクトル・ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』で、過去を悔い改めて人々の幸せを願い、命がけでキリストのため、人のために生きる、ジャンバルジャンを、見事に描き切りました。日本においてこの舞台劇が切れ目なく何十年も上演され続けているのは、「今」という時を大切に生きる者の尊さが人々の胸を打つからです。
神さまが見ておられるのは、「今のわたし」です。神さまはいつも今のわたしを評価されます。過去においてわたしたちが教会のために、多くの奉仕をした、多くの献金をしたといったことは、自分で誇ることができても、神に喜んでいただくことはできません。今どのように奉仕し、どのように捧げているかが重要です。
 続けてパウロは言います。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」「賞」は古代ギリシャの競技の優勝者にあたえられる賞のことです。ここでは賞は「死者からの復活」です。神さまが準備してくださっているものです。
 目標は神のみ心にかなった生き方と死に方です。具体的には主イエスの生き方と死に方です。これを貫くことで「死者からの復活」を与えられると言います。そこで「ひたすら走る」のです。パウロは、この手紙を書いていたとき、マラソン競技において、自分の前を走り続ける主イエスを見つめ、このお方に遅れないよう、見失わないように、走り続けている自分を想定していました。一番走者の主イエスは走るべきコースも、ゴールも熟知しておられました。また、父なる神から与えられる賞がどのようなものかをも知っておられました。パウロは一番走者である主イエスを見つめて追いかける後続の走者でした。
 パウロは「今」というときを、いつも神さまと良い関係にあることを心がけてきました。これが賞を得るために一番大切なことです。パウロの頑張りを支えたのは、神から与えられる賞ですが、これは銀でできたカップやトロフィーではありません。そういったものなら、時の経過とともに朽ち果てていきます。死からの復活にしてもそうです。復活が新しい身体や新しい命であったとしても、これを罪を犯すために用いるなら新しい身体は、汚され、失われて行くでしょう。パウロが求めていたのは、今も後も変わりなく、神を愛するこころ、隣人を愛するこころでした。いつもこのような心がけで生きることができるようにと願っているのです。
 パウロは言いました。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」パウロは、自分を含め信仰において本当に完全な者は、わたしが言うように考え、行動するはずであると言います。パウロはここで自分と違った考え方を容認しているのではありません。あなたがたの中にもし自分が完全だと思う人がいるのならきっと同じように考えているはずです、もしそうでないなら、これからは同じように考えてくださいというのです。
 「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」は、新共同訳聖書では、死者からの復活に関して、自分と異なる考えをもっている人がいてもかまいませんと言っているように読めます。しかしそれは間違いです。「もしあなたがたが今は何か違った考え方に立っているとしても、神はやがてあなたがたに、わたしと同じような考え方を啓示してくださるであろう。」という意味なのです。
 最後にパウロは言いました。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」わたしたちは、自分の信仰の程度に応じた信仰生活をするものです。パウロはそれで良いと言います。無理に背伸びする必要はありません。しかし、その場合でも、列を作って歩かねばなりません。すなわち、主イエスを模範として歩むのです。自分勝手な信仰生活が認められているわけではありません。
 パウロはいまや死を迎えようとしていました。殉教死です。しかし、パウロには怒りや不安はありませんでした。フィリピの教会の人々の数々の支援と、復活の主イエスの赦しがパウロと共にありました。
 パウロはフィリピの人々に自分と同じように殉教死してほしいと言いませんでした。その必要がなかったからです。これまでと同じように、あなたのできる奉仕を継続してください。そして、死者からの復活にあずかってください、と言っているのです。この短い言葉にフィリピの信徒たちへのパウロの愛と期待が余すところなく込められています。
 旧約聖書の詩編37編30節以下に、「平和な人には未来がある」とありました。今朝の教会学校の礼拝でも「平和を実現する人々は幸いである。」(マタイ5・9)が語られました。今日は平和聖日です。平和を愛し、平和のために祈りましょう。
(聖霊降臨節第十主日・平和聖日礼拝 8月2日)