9月13日主日礼拝説教

説教題「思い煩うのはやめなさい」 説教者 牧師 福井博文
聖書 詩編121編1~8節、フィリピの信徒への手紙4章2~7節

 パウロはフィリピの教会の女性指導者に言いました。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」勧めるは、傍らに呼ぶという意味です。また懇願するという意味もあります。同じ思いを抱きなさいは、同じことに心を向けて努力しなさいという意味です。
 同じ思いとは、他でもない主イエスの教えに従うことを言います。主はどのような教会が形作られることを望んでおられるのでしょう。主が望まれる教会は、主の教えを正しく理解しこれを伝える教会です。自己中心的であることを悔い改め、自分を愛するように隣人を愛する教会になることです。このことが明確な目標になっていれば、ねたみや争いは自然と収まります。
 次ぎにパウロは言いました。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」
 真実のは、心からのという意味、協力者は、共に軛(くびき)につながれている共働者、仲間という意味です。二人にはそれぞれに協力者がいました。この人たちは確かに忠実でした。しかし、パウロはそれだけでは駄目だと言います。
 支えるは、助ける、援助するという意味です。エボディアとシンティケは、クレメンスや他の協力者と共に福音のために命がけで戦ってくれた人たちでした。彼女たちには私心がなく、勇気ある人たちで、信頼でき、尊敬できる人たちでした。従ってただ同調するだけでなく、同じ主イエスの軛につながれているのだから、同じ目的に向かうよう、時には諫め、助言し、励ましてあげてくださいと指導しました。
 当時はまだ信仰の内容に違いが生じていたとは考えられません。礼拝の仕方でもめることもなかったと思われます。恐らくどのような教会を形成するかで考え方に違いができていたのでしょう。エボディアとシンティケは、教会の婦人指導者として絶えざる闘いと孤独の中にありました。二人は特に責任感が強かったため、次々に生起する問題、難題に対処するため、気を緩めることができなかったのです。
 よく知られていることですが、教会は初めの頃からひとつの課題を抱えていました。ベタニア村のマルタとマリアの信仰の表し方に大きな違いがあったことが知られています。食事の世話や助けを必要とする人々に忙しく奉仕を行う態度が正しいのか、それとも静かに心を込めて礼拝したり学んだりする姿勢が正しいのかという問題です。
主イエスは妹のマリアを非難した姉のマルタに向かって、多くのことに思い悩み、心を乱してはならない。マリアが主の御言葉に耳を傾けていることを非難してはならないと仰せになりました。主イエスはどちらも間違っていない。ただ、相手を裁くようなことだけはしないようにと助言されました。
 パウロは言いました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」喜びなさいは、こんにちは、ごきげんようという態度のことです。うれしがるという意味です。愛する人たちの幸せな姿を見てとてもうれしく思うことです。フィリピの教会の人々は、信仰深い指導者に恵まれとても幸せでした。この教会の安定と成長を乱さないようにとパウロは指導しました。
 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」広い心は、寛容という意味です。批判を差し控えること、自制心のことです。相手のやり方に我慢ならないと感じていた二人でしたが、ここはひとつこらえてください、軽々に批判したりしないようにしましょうとパウロは指導します。「主はすぐ近くにおられます。」は、主が側におられて、あなたがたの思いをちゃんと理解してくださっていますということです。
 更にパウロは言いました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」思い煩うは、心を労する、気をもむという意味です。二人は教会員の中で問題を抱えた人たちが多くいることについて心を労していました。気をもんでいました。あまりに深く関わり過ぎ、解決を急ぐ余り、他の教会員が無関心に感じられ、つい苛立って裁くような発言をしたり、声を荒げたりしてしまいました。そこでパウロは人に訴えるのでなく、神に訴えるようにと勧めます。
 オーストリアの精神分析医のフロイトやスイスのユングは多くの精神疾患を持つ人たちの相談に真摯に向き合っていました。しかし、ある時期から、それぞれに精神に不調を来たし、鬱病になりました。そしてしばらく静養しなければなりませんでした。このことは、普通の人間のもつ精神の限界性を表しています。現代でも認知症の親を抱えて世話をする家族の負担の重さが知られています。ひとりで抱え込まないで、神さまを初め、多くの人に助けていただきましょう。これは決して恥ずかしいことではありません。
 パウロは続けて言います。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」神の平和は神がお持ちになっている平和、平安です。難題に向き合い続けるために、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けることが必要です。パウロも同じような経験をしながらそれを乗り越えてきました。主イエスも時間があればいつも父なる神に祈っておられました。
 「心と考え」は、心と頭の思考です。頭が悩みますと心も病んできます。頭と心を休ませるため、まず頭を休ませねばなりません。そこで祈りが必要となります。祈りは理性的であることが求められますが、人は物事を理性的に解決しようとすればするほどしばしば迷路に入り込んでしまい、抜け出すことができなくなることがあります。
そこで祈りはしばしば霊的であることが必要です。自分で何とかしようとしないで、神に助けを求めるのです。率直に祈るのです。どうしてよいか分かりません、教えてください、助けてくださいと祈るのです。神に助けを求めることは恥ずかしいことではありません。悩みや迷いを神に打ち明けて応えを待つのです。そのときわたしたちは思考停止します。これが霊的な祈りです。自分で考えないで、神さまに考えていただくのです。そして、時を待つのです。神が語りかけてくださるのを待つのです。
 子どもの保育の中で重要なことは、助けてと素直に言える子どもに育つことです。それは子どもの親や教師に対する信頼が育っているということです。現代の人々は早く自立すること、早く自分一人で生きていけるようになることをせかされます。しかし、人間は、自分一人では生きていけない存在です。神さまがそのようにお造りくださいました。厄介なことのように思われがちですが、逆に有難いことなのです。この厄介さの中で謙遜を学び、感謝する心を学びます。
 守るは、見張る、監視する、見守る、保護するという意味です。神はわたしたちの心と考えを、いつも関心を持って見守ってくださっています。わたしたちは祈りを教えられているので、魂に休みを与えていただくことができます。祈りを通してわたしたちは信仰の先輩や教会生活の先輩を見習うようになるかもしれません。牧師に相談する勇気が与えられるかもしれません。わたしたちは経験を重ねることで、知恵を与えられ、成長していくのです。
 フィリピの手紙は、三つの手紙が組み合わされたものと言われます。第一は4章で、第二が3章で、第三が1~2章がと考えることもできます。もしそうなら、1~3章にエボディアとシンティケに関する記事は出てこないので、二人の確執はこの後、緩和され、互いに認め合い、それぞれが自分の務めに励むようになったのかもしれません。わたしたちも共に主の軛を担い自分の務めに励みましょう。(聖霊降臨節第十六主日礼拝 9月13日)