9月20日主日礼拝説教

説教「互いに足を洗いなさい」 平向倫明 伝道師
聖書 レビ記19章18節、ヨハネによる福音書13章12~20節

 ヨハネ福音書13章1~11節には、主イエスが弟子たちの足を洗われたことが描かれていましたが、この足を洗う行為には目的がありました。その目的が明らかにされるのが、本日の御言です。
 13節で主イエスがご自分と弟子たちの関係(師と弟子)を確認した後に、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、(弟子である)あなたがたも、互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」とおっしゃいました。「…洗わなければならない」と訳された言葉は、原典では「…洗うべき義務がある」という意味の言葉です。
 続く16節の「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」との御言が、本日の説教の鍵となる言葉です。この16節を理解するために、先に17節を見てみると、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と訳されていますが、原典では、「これらのことが良く分かり、それらを行うなら、あなたがたは、祝福された人たちです」と、「これら」・「それら」と複数形なのです。15節までは「足を洗う」というただ一つの行為を示していたのに、17節で、急に複数形になっているのです。
 もし、主が模範として示されたことが、「足を洗うこと」だけだと解釈したら、弟子たちは、町へ繰り出して、ひたすら皆の足を洗いまくることになると思われますが、その様なことはしなかった訳です。そうすると、主が示した「互いに足を洗う」という行為が象徴的な事柄だったとすると、どの様なことの象徴としてなされたのでしょうか。
 この疑問を解く鍵が16節の「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」ということです。この16節を読んで、すとんと腑に落ちない人もいるのではないでしょうか。なぜなら、最近、将棋の世界で高校生が自分の師匠よりも強くなった例があり、これ以外にも師匠よりも優った弟子が誕生しているケースがこの世には沢山あるからです。でもこれは、人間の能力的な事柄についての話しです。人が何かに興味を持ち、そのための技術なり頭脳なりを磨いてその道を究めると、弟子が師匠よりも優ることは大いにあることだといえます
 しかし、主イエスが16節でおっしゃったことは、その様な人の能力とは異なることだと考えられます。つまり、技術や技能などの能力を比較して、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」とおっしゃったのではないということです。
 例えば、足を洗うことで考えてみれば、短時間でどれだけ多くの人の足を奇麗に洗うことが出来るのかといった能力的なことを主イエスがおっしゃったのではないのです。
 ではどの様なことなのか、それを敢えて言えば、「あなたは、自分を裏切ろうとしている人の足をも奇麗に洗ってあげることが出来ますか?」ということです。もし、自分を裏切ろうとしている人(イスカリオテのユダ)の足をも奇麗に洗ってあげることが出来たとすると、それは、足を洗う能力が優れていたからではないと言えます。では、何によって主イエスはユダの足を洗われたのでしょうか。
 それは、父なる神の愛によって、主イエスはユダの足を洗われたといえます。なぜなら、父なる神の愛をこの地上に表してくださった方が、唯一の主イエス・キリストだからです。その父なる神の愛をもって、主イエスはユダの足をも奇麗に洗われたのです。そうすると、「愛すること」とは、「能力ではない」と言えるのではないでしょうか。
 つまり、全能なる神が持つ能力の中の一つが「愛すること」なのではないのです。全能なる神が、そっくりそのまま「愛」そのものだということなのです。
 この父なる神の愛が全ての根源です。この愛がなければ、天地万物の創造の御業もなかったし、人間も造られていなかったのです。ましてや、主イエス・キリストが地上に遣わされることもなかったのです。この愛は、地上の人間が自分たちの力で作り出すことも、保つこともできないものです。それだから、僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさることが絶対に出来ないと言えるのです。
 人は、己の能力を鍛えて・訓練するから愛することの出来る人間になれるのではありません。父なる神の愛をこの地上に現してくださった主イエスがおられたから、この方を信じる信仰によって、私たちは、その愛を受け取ることが出来るだけなのです。ですから、「互いに足を洗いなさい」とは、隣人の足を洗う如くに、自分が低い者となって仕えていくことを示していて、それが、主イエスがお示しくださった、神の愛を表す象徴的な行為なのでした。
 従って、神の愛を伝える僕の姿は、隣人の足を洗う行為だけではありません。神の愛を伝える方法はまだ幾らでもあります。ですから、17節を原典では、「これら」・「それら」と複数形で示していたといえます。
 私たち人間は、本来、真の愛を持たない者として生まれてきました。父なる神の愛を地上にお示しくださった主イエス・キリストによって真の愛を受け取る者とされていますが、この世にいる間は、その神の愛を完全に保ち続けることは出来ず、礼拝の度毎に、少しずつ頂いているに過ぎないのです。
 まず兄弟姉妹と互いに足を洗い合う関係になり、主イエスがお示しくださった愛を喜び、その愛によって自分自身を愛すると同時に、隣人へもその愛を現していくことが出来るようにと、私たちに教会生活が与えられているのです。
 そして私たちには、主イエス・キリストが示してくださった主なる神の愛を広く伝えていくという義務が課せられています。でも、この義務は辛く厳しいものなどではなく、喜びと希望に満たされた中で果たして行く義務なのです。