9月27日主日礼拝説教

説教「ユダの裏切り」 伝道師 平向倫明
聖書 エレミヤ書3章6~11節、ヨハネによる福音書13章21~30節

 ヨハネ福音書13章1節などを見ると、主イエスご自身が、この世に遣わされた目的が十字架の死であることを認識しておられたことが分かります。この目的に向かって、ご自分を裏切るイスカリオテのユダが行動を起こそうとする場面が本日の御言です。「イスカリオテ」とは、「カリオテ出身の」という意味であり、ユダの父シモンが「カリオテ」(モアブのケリヨトとする説がある)と言う所からより良い生活を求めてイスラエルへ移住した事が推察されます。息子ユダも父の精神に則り、より良い生活を求めて主イエスに従ったのかもしれません。しかし、自分の期待と実際の主イエスが異なっていることに気付き始め、ユダは、お金と引き換えに、主を祭司長たちへ引き渡そうと考えるようになったのです。

 主イエスは、ユダの裏切りを事前に知っておられました。主が「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」とおっしゃったために、弟子たちは犯人捜しを始め、それがだれのことかを主に尋ねると、主は「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と明確に答えられ、パン切れを浸して取り、ユダにお与えになりました。
 ところが、その様に明確にユダが裏切り者であることを主が示されたのに、弟子たちは、誰もユダに対し文句を言わないどころか、28節には「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。」と記されています。弟子たちのこの様子から、ユダが普段から主への文句や悪口を言う者ではなかったと推察され、かつ、ユダが信頼されていたので会計も任されていたのです。弟子たちには、ユダが主を裏切ることなど想像出来なかったのでしょう。

 本日の御言で一番理解し難いところは、27節の「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」ではないでしょうか。恐らく、聖書を読む多くの人が、「なぜ、主イエスは、ユダに裏切ることを止めさせるのではなく、ユダに裏切りの行為を実行させるように煽るようなことを言ったのだろうか」との疑問を持たれるのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書の特徴の一つは、イエス・キリストは私たち人間の信仰や祈りによって神の子とされてその栄光を保っておられるのではないという事です。神は、神ご自身によって神であり、神が神であるために人間の力を必要としていないという事なのです。
 このヨハネ福音書の信仰的特徴に沿って27節を理解しようとすれば、父が御子を遣わされた最大の目的としての十字架の贖いの御業を成し遂げる事においても、ユダの自発的行為、つまり人間の力によって、その事がなされるのではなく、父なる神の御心が常に先行しているのです。この先行する御心は、聖書の御言に示されていて、イスカリオテのユダも、聖書の御言が成就する形で用いられた人物であったのです。

 しかし、弟子たちの中で主イエスを裏切ったのは、イスカリオテのユダだけではありませんでした。主イエスがゲッセマネの園で捕まったとき、弟子たちは皆、主を見捨てて逃げて行ったのです。ただ、この弟子たちとイスカリオテのユダとの決定的な違いは、その裏切り行為の後で、主イエスの下に立ち返り赦しを願ったのか、ユダの様に自分で自分に罰を下してしまったのか、という事であります。
 この世に、主の十字架の贖いによって赦すことの出来ない罪は一つもありません。但し、「主イエスの下に来て、赦しを願いさえすれば」であります。自分で自分の罪を贖うことは、誰にも出来ないのです。イスカリオテのユダを反面教師として、私たちは、悔い改めて、主の下に立ち返る事の恵みを学ぶことが出来るのではないでしょうか。

 本日の御言から、もう一つ学ぶことがあります。
 主が12人を選ばれたという事柄の中に、古代教会が誕生した際の核があります。しかし、その12弟子の中に、主を裏切る者がいたのです。
 教団の教会の歴史を振り返るとき、その歴史が長ければ長いほど、また、教会員が多ければ多いほど、教会を分裂させる様な出来事を経験したという教会が沢山あるのではないでしょうか。この様な出来事を、「私たちの教会の運営の仕方が悪かった」と考えてしまうより、古代教会の核の中に既にその要因があったのです。これは、地上の教会には、初めから不完全さがあったと理解出来ます。
 誰しも、戦争や犯罪の無い平和な世の中であって欲しいと願っています。でも現実には、戦争や犯罪はなくなっていません。これは、神がおられないからという事ではなく、神がおられても、この地上には戦争や犯罪が亡くならないのです。人間がこの世で暮らす限り、その様な罪の存在はなくならないのです。それだから、人は、罪と戦いながら生きなければならないのです。
 しかし問題は、それが罪だと直ぐに気付かないことです。イスカリオテのユダも、主イエスに従ったときには、「こんなはずではなかった」と、主を裏切ることになるなどと思ってもいなかったでしょう。ユダは、自分の理想を、神の御心よりも優先させてしまったために、主を裏切る気持ちを抱いてしまいました。サタンは、いつも人間の心に入りこもうと様子を窺っています。サタンの恐ろしいところは、罪を罪だと気付かせないところにあります。サタンと逆に、主イエスは、ご自身の命をもって罪を罪だと気付かせてくださる方です。
 「こんなはずではなかった」と思う前に、「こんなはず」の中に主の御心を見出そうとする少しの努力が私たちに求められているのではないでしょうか。「こんなはずではなかった」事に出会ったとき、自分を変えるのではなく、周りを変えようとするのであれば、それは、御心を足げにしてしまうことになり兼ねず、神をも自分の足下に平伏させてしまう事になり兼ねません。それだから、私たちには、礼拝で御言なる御神と向き合い続ける恵みが与えられているのです。