9月6日主日礼拝説教

説教「わたしたちの本国は天にあります」説教者 福井博文
聖書 ダニエル書7章13~14節、フィリピの信徒への手紙3章20節~4章1節

 パウロは「わたしたちの本国は天にある」と言います。本国と訳される言葉は英語のシィティズンシップです。市民権のことです。国籍にしても市民権にしても、そこに戻れば多くの人たちから歓迎され、そこで生き続ける権利を持ちます。住むところが与えられ相応しい仕事が与えられ年金も支給されます。いのちを狙われることなく奴隷にされることもありません。こういった生活が保障されるのは、正当な市民として国から法的な保護を受けることができるからです。
 わたしたちははじめから天に国籍を持っているのでしょうか。日本人は死んだとき阿弥陀様が迎えに来てくださり極楽に連れて行っていただけると信じています。これはキリスト教の教えから着想を得たものと思われますので間違っていません。しかし、聖書によりますと、わたしたちは一度は天の国籍を失っていると言います。それは罪を犯したからです。アダムとエバは、エデンの園が自分の所有と考え、食べてはいけない果実を食べました。この事件は神の言われることに従わなくなったということを象徴しています。
 そこで神はお怒りになり天国の国籍、市民権を反故にされました。パウロは「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3・9)と述べ、一度失った国籍、市民権ですが、天から来られた神の御子イエス・キリストのお陰で、国籍・市民権を取り戻すことができたと言います。
 パウロは続けて言います。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」わたしたちがすべきことは一つだけです。それは待つということです。天から主イエス・キリストが救い主として迎えに来てくださるのを目を覚まし心待ちにしているのです。待つことは退屈なように思いますが、そうではありません。待つ間にわたしたちは多くの時間が与えられています。そこでわたしたちは、その間に神に喜んでいただける奉仕と仕事ができます。
 それだけでなく、信仰者にとっては、この世は本国(天国)に戻るための訓練の場であるとも言われます。神の御慈愛に気づき、信仰に生きることを学べる最良の機会です。天国は、主イエスがおいでになって、みなが喜びをもって働き、お互いを認め合う世界です。天国に神さまはいるのですかという質問がなされますが、神さまは霊なるお方でどこに行っても目で見ることも感じることもできません。天においては主イエスに仕えることが、神に仕えることになるのです。
 パウロは、わたしたちの卑しい体を、栄光ある体に変えていただけるときがくると言います。変えていただけるは姿を変える、外観を変えるという意味です。岩波書店訳では変容すると訳されます。パウロによれば、朽ちる体が朽ちない体に変えられるのです。これはあくまでも神の憐れみによります。ですから反逆の罪を悔い改めて、主イエスが神から遣わされた救い主で、必ずわたしたちを迎えに来てくださることを素直に信じることができる人なら誰でも本国に迎えられます。
 「万物を支配下に置くことさえできる力」は、主イエスの復活によって証明された力(ギリシャ語ではエネルゲイアン)です。神はビッグバンに始まり137億年という気の遠くなるような歳月を用いて、この奇跡の宇宙を造り上げてくださいました。そのことを思うと、神が愛するわたしたちのために、新しい世界と新しい体を用意してくださっていることは、容易に想像できることです。そして「卑しい体」(パウロ自身がこのように思っているわけではありません。)を「栄光ある体」に変えていただけるというのです。
 最後に、パウロはフィリピの教会の人々に「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち」と呼びかけました。慕うは切望する、熱望するという意味です。パウロは実際に会って話したいと願っているのです。たびたび献金、贈り物、身の回りの世話をする者を送ってくれた心遣いはパウロにとって大きな慰めであり励ましでした。
 そこでパウロは、フィリピの教会の人々を「わたしの喜びであり、冠である」と言いました。冠は競技の勝者、優勝者に与えられる栄冠です。パウロは、フィリピの人々を、それほどに誇らしく思っていたのです。教会の人々を神からいただいたご褒美と思っていました。フィリピの教会に、多くの信頼できる友を与えられていたのです。
 この世の幸せは、計画的に手に入れようとしてなかなか得られるものではありません。一時的に成功を手にすることができたとしても、またすぐに奪い取られてしまいます。人の幸せは、神と人に仕える中で、自然と与えられて来るものです。このような幸せは盗人が盗み取って行くことはできません。「このように主によってしっかりと立ちなさい。」立つは「堅く立つ」という意味です。キョロキョロしないで、主を見つめて、立ち続けることです。このようにわたしたちはこの世でも主に仕え、来たるべき世でも、変わらずに主イエスに仕えるのです。信仰は永遠です。(聖霊降臨節第十五主日礼拝 9月6日)