もう一度、ユダヤに行こう

エゼキエル書37章12~14節 ヨハネによる福音書11章1~27節

牧師 福井博文
「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」わたしたちはこの美しい福音書の記述を素通りするわけには行きません。首都エルサレムからわずか2.7キロしか離れていないベタニア村に住んでいたマルタ、マリア、ラザロは、主イエスがエルサレムの宗教指導者から敵視されていることを知っていました。主イエスは、悪霊の頭ベルゼブルにちがいない。その力によって悪霊を追い出しているとか、ユダヤ教の言い伝えを重んじない。安息日に癒しをするので神に反逆する者である、といった中傷、悪口を受けていました。しかし、三兄姉の主イエスに対する愛と信頼は変わりませんでした。
主イエス御自身も、こういった中傷や悪口を黙って受け流されないで、悪霊の頭が悪霊を追い出しているなら、悪霊たちの国は立ちゆかなくなる、安息日に人が癒されるのと、そうでないのとどっちが善いことかと反論されました。そして、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく警戒しなさい。」(マタイ16・6)と言われました。わたしたちは、主イエスが愛のお方であるから、人のことを決して批判されなかったと考える向きがありますが、そうではありませんでした。
主イエスはもの怖じせずに、正しいことを語り、注意すべきは注意されました。そうすることで、正直に生きようとする信仰者を守ろうとされたのです。主イエスの強さの源泉は、信仰に生きようとする仲間への愛でした。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・11~13)
主イエスは仰せになりました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10・10b~11)これは牧師の職務にある者にとって、最も重い言葉です。牧師は、物わかりの良い人間であるだけでは務まりません。あるとき先輩の牧師から、説教と同時に、普段の何気ない指導の言葉がとても大事だと教えられました。それ以来、意識的にその務めに取り組むようにしています。牧師は人間の体で言いますと口の働きです。口は説教すると同時に、言いにくいことを言う仕事も担わねばなりません。今では牧師の牧師たるゆえんだと思うようになりました。
主イエスは弟子たちに言われました。「もう一度、ユダヤに行こう。」そこで弟子たちは言いました。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」主イエスが、エルサレムの近くのベタニア村に行かれることはとても危険なことでした。しかし、主イエスは愛するラザロをよみがえらせるため、進んで危険な場所に行こうとされました。主イエスは弟子たちに語られました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12・24~25)
語り尽くされたエピソードですが、内村鑑三は、東京第一中学校の教員であったとき(1990年)、講堂で行われた「教育勅語奉読式」で天皇晨筆(しんぴつ)の御名に対し最敬礼を行わなかったことが、同僚の教師や生徒によって非難され、職を追われることになりました。それからは、キリスト教学校の教員、新聞記者を経て、キリスト教雑誌『聖書の研究』を刊行し、多くの信仰者を育てました。内村鑑三は二つのJを愛したと言われます。ジーザスとジャパンです。主イエスと日本の郷土と住民です。その愛のゆえに内村は引き裂かれたのかもしれません。十字架上のキリストのようにです。内村鑑三の弟子であった南原繁は、東京大学の総長職にあるとき、教育基本法の制定に尽力し、小学校、中学校の義務教育が実現しました。
「イエスが、さあ、彼のところへ行こうと言われると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに言いました。『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。』」12弟子のひとりであったトマスの覚悟が記されます。他の弟子たちもその思いは同じでした。愛することは覚悟を決めることです。洗礼を受けることは、神を愛し、隣人を愛する覚悟を決めることです。覚悟を決めないと、わたしたちは一歩も前に進めません。一旦覚悟を決めますと、新しい世界が眼前に広がって行きます。
しかし、わたしたちはこの覚悟を必ずしも最後まで全うすることができません。主イエスが捕まったとき、12弟子はひとり残らず逃げました。わたしたちは主イエスと同じように生きられるわけではないのです。むしろ主イエスに従い始めたときから、本当の意味で自分の弱さと向き合うこととなります。これがキリスト者であることのゆえんです。主イエスの励ましと支えを受けて、逃げないで自分と向き合いながら歩んでいきましょう。(4月6日 主日礼拝)