説教「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」

聖書 ゼカリヤ書9章9~10節 マタイによる福音書11章25~30節

主イエスが神の国の到来を告げられた時、これを受け入れない人たちもいました。11章2~20節には、バプテスマのヨハネすら主イエスがどういうお方であるかがよく分からなかったと記されます。11章20~24で、主イエスはガリラヤの町々に対して災いを告知されました。これに対し少数派ではありましたが、主イエスを受け入れる人々もいました。
主イエスは言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」「ほめたたえます」はギリシャ語でエクス・オモロゲオーです。認識する、公然と認めるという意味です。主イエスは父なる神を認識し、公然と認め告白されたのです。
主イエスは、世で言うところの、知恵ある者でもなく、賢い者でもありませんでした。それでも父なる神を正しく認識することおができになりました。ここに信仰の不思議があります。「知恵ある者」とは、ギリシャの哲学者のことを言います。今で言う科学者のことです。科学的思考ができる人たち、合理的精神の持ち主です。ですから神の認識は、哲学者のような人々に委ねられ、期待されていました。
「賢い者」とは、ユダヤの宗教学者のような偉い人のことでした。日本では、神職に就くような人、仏教の高僧のような人です。特別に高度な知的訓練を受けた人でないと、神の認識はできないと考えられたのです。しかし、主イエスは言われました。「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
神の国の到来は幼子のような者にしか与えられません。そこには神の選びと神の啓示が必要です。時々人間的な名誉を求めて教会に入会する人がいます。ボタンの掛け違いとでも言うのでしょうか。その生活は何年経っても、本当の信仰生活になりません。元のの生活のままです。主イエスは言われます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」生まれ変わりは、学歴や職歴、家柄や収入の多少によりません。性格の善し悪しや病気のあるなしにも関わりません。神は御自分が選ばれた者を、聖霊によって生まれ変わらせなさいます。それは一瞬にして起こります。そしてその生まれ変わりは必ず確認できるものです。それはヨハネによる福音書3章7~8節に分かりやすく書かれています。
「驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」耳を澄ませば音が聞こえます、サワサワと。その音でああ風が吹いていると分かります。主イエスはその人が生まれ変わっているかどうかは、その人の信仰生活を見ていればすぐに分かると言われます。
「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」ここで言われていることは、難しいことではありません。わたしたちが、主イエスを愛し、敬う心を持っているなら、すでに神さまに選ばれているのですよ、と言われます。
更に主イエスは仰せになりました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」ユダヤの国では、安息日に麦の穂を摘むこと、手の萎えた人を癒すことを律法で禁止されていました。人々は律法学者やファリサイ派の人々から律法の重荷を負わされていました。そこで主イエスは、そのような重荷から解放され、新しい信仰に生きることを勧められました。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」「負いやすく」は、ギリシャ語でクレストスです。身体に優しいという意味です。主イエスの軛は身体に食い込み、傷つけるようなものではありません。「軽い」は、担い続けることが可能な重さで、わたしたちには軽く感じるというものです。「学びなさい」は、わたしの教えに耳を傾けなさいという意味だけでなく、徒弟のように、見様う見真似で、習い覚えなさいという意味です。二頭の牛が一対のくびきでつながれています。片方の牛を主イエスと考えれば、もう一頭はわたしたちで、その生き方を見習いながら生きるのです。苦しくはありません。わたしたちも、主イエスに倣い、神を愛し、隣人を愛する歩みを致しましょう。(7月6日 主日礼拝)

・・・が差し替え部分です。下記の文に差し替えてください。
神の国は幼子のような主イエスに与えられました。それはわたしたちにも言えることです。わたしたちも幼子のようにならねば神の国にあずかることができないのです。そこには神の選びと神の啓示があります。わたしたちがなろうとしてなれるものではないのです。