2020年4月26日主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書25章7~10節、ヨハネによる福音書11章17~44節
説教題:「イエスの涙」

 ヨハネ福音書11章3節に記されていますが、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」との連絡を受けたイエス様は、ユダヤのベタニアと言う村に行きました。この村に到着したのは、ラザロが亡くなってから四日目のことでした。ラザロの姉妹マルタは、到着されたイエス様に出会ったとき、唐突に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。マルタの少し後にイエス様と対面したマリアも、マルタと同じことを言ったのです。この姉妹たちの言葉から、姉妹たちの心中を察することが出来ます。

 それは、次のようなことによります。エルサレム神殿の境内で教えておられたイエス様が、ユダヤ人たちがご自分を捕らえようとした為、そこを去ってヨルダン川の東側の村へ向かわれたのですが、その道すがら、イエス様がマルタたちの家に立ち寄って、そこへ行くことを伝えたのでした。それを聞いたマルタとマリアの本心は、「イエス様が川向こうの村などへは行かずに、ラザロのために自分たちの家に居続けて欲しい」と言うものであったことが、「主よ、もしここにいてくださいましたら……」との言葉から知ることが出来ます。〔11章1節の「ある病人がいた」との言葉は、原典を見ますと「病人で居続けた」と言う言葉であることから、ラザロには持病があったと考えられます。また、「主よ、もしここにいてくださいましたら……」との言葉も、原典では、「主よ、もしここに居続けてくださいましたら……」であります。〕ラザロが死んでしまった今、二人の姉妹は、その時にイエス様を無理にでも引き留めておかなかったことを後悔していたのです。

 マルタたちは、「たとえ病状が悪化したとしても、ラザロが何とか生きてさえいればイエス様が来られた時にその病を癒してくださるに違いない」と信じていました。しかし、イエス様が到着されたのは、ラザロの死から四日も過ぎていました。「さすがのイエス様も、ラザロが死んで四日も経ってしまったら、もう、どうすることも出来ないだろう」と、マルタたちは絶望に陥っていたのでした。マルタとマリアには、「死」と言う事柄が人間の手が届く範囲の限界であるとの思いがあったようです。それで、イエス様の力の及ぶ範囲をも、自分たちの常識の範囲の中だけで考えてしまっていたのです。姉妹たちの信仰には、その様な限界(壁)があったことも窺えるのです。しかしイエス様は、死んでから四日も経ち、腐った臭いを放つラザロを父に願って生き返らせたのでありました。

 イエス様は、マルタとマリアに会ったとき、「さあ、もう私が来たから心配しなくても良いよ。悲しまなくても良いよ」とはおっしゃいませんでした。
むしろ、33節以降に、イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
とありますように、イエス様は、涙を流されたのです。もし、ベタニアに到着された時のイエス様の心中が「さあ、もう私が来たから心配しなくても良いよ。父に願って、直ぐにラザロを生き返らせてもらうから、悲しまなくても良いよ」と、余裕のある落ち着いたものであったとしたなら、イエス様は、そこで涙を流すことはなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は涙を流されたのであります。このイエス様の涙には、どの様な意味があったのでしょう。

 このイエス様の涙は、ラザロの墓へ行く前に流されたものでありましたから、ラザロの墓の前に行って、死んでしまったラザロを憐れんで涙を流したものではないと言えます。マリアが泣いていて、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって、イエス様は、心に憤りを覚え、興奮されたと記されています。「心に憤りを覚え」の「憤る」と言う言葉は、「馬が鼻を鳴らす」と言う意味の語源から来ています。静かにしていた馬が突然に「ヒヒーン」と鳴く様子を、「馬が不機嫌になった」・「怒り出した」と捉えたことから、「憤る」と言う意味を持たせたと考えられます。また、口語訳では、「激しく感動し」と訳していますから、イエス様は、ここで、「うぉー」と叫ぶように心が動かされなさったものと思われます。私たち人間の持つ「人の死」と言う深い悲しみをイエス様が共感なさったと捉えることが出来るのです。このことは、過渡的なこの世で生きる人間の命を「人は、いずれ神の国へ入るのだから、この世での生活は適当で良い」と見做したのではなく、人がこの世で生きる命をも主は尊ばれておられたと言えます。
 ヘブライ人への手紙4章14~15節に、
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」
とあり、イエス様の人性面が強調されています。
更には、同じヘブライ人への手紙の5章7-8節に、
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」
と、あるのであります。この様子は、本日の御言の様子と大変良く似ています。これは、イエス様の、人間の命を創られた神様への畏敬の念の表れであり、神様が創られた命の尊厳への遜りでもあると言えるのだと思います。イエス様は、この人の命の重さ・尊さを大切になさるからこそ、人の生死を軽々しくコントロールするかの様に、「さあ、わたしが来たから、もう大丈夫。直ぐに生き返るよ」などと振る舞うことが出来なかったのであります。
この場面で、もしイエス様がラザロを「ああ、大丈夫、大丈夫。私がなんとかしてあげるから」的な感覚で生き返らせたとしたらどうでしょうか。神様が創られた命の価値は、随分と軽いものに感じ取られてしまうのではないでしょうか。
イエス様は、御自分が生死を支配する者としてラザロを生き返らせたのではありませんでした。と、言いますか、イエス様がラザロを生き返らせたのではなく、父なる神様に、ラザロが生き返ることを願い、父なる神様が、それを「良し」とお認めになられたのです。

 ラザロをイエス様は心から愛しておられました。ラザロはまた、姉妹たちや周りの人たちからも愛されていたのであります。そのラザロを生き返らせることで、神の栄光が現され、イエス様御自身が神様から遣わされて来た方であることを、周りにいる群衆が信じるようになるためでありました。
このことによって、イエス様が神の御子であることが知れ渡り、信じられるようになるのであります。この神の御子が、わたしたちのために十字架にお架かりになり、その尊い命を捧げてくださったのであります。

 「イエス様は、人の命を生き返らせることが出来る」と聞きますと、私たち人間の命が少し軽くなったように感じてしまうでしょうか。しかし、もし、そう感じてしまうのだとしますと、イエス様の十字架の死も軽いものとなってしまうのではないでしょうか。この十字架の出来事によって、イエス様が、ラザロだけでなく、わたしたち一人ひとりをも愛してくださっていることを、私たちは知るのであります。神様がその独り子を犠牲にしてまでも、わたしたちの命を救おうとなさったほどに、わたしたちの命は、尊く、神の御目に価値あるものとされているのであります。
神様は、御自分のペースに私たちを従わせることはなさらず、逆に、わたしたちの生活の場へと御子イエス・キリストを遣わしてくださったのであります。神様を礼拝することは、神様へ感謝を捧げる上で、とても大切なことであります。しかし、このことは、地上において、私たちの命が罪に犯されず、神様によって護られ続けるためでもありました。

 今、新型コロナウイルスによって、今日まで、世界で20万人以上の命が失われているのであります。この命を護るために、私たちは、感染してはならないし、感染させてもならないのであります。しかしながら、このウイルスの怖さをなかなか自分の命のこととして、考えることが出来ていないのではないでしょうか。「自分は大丈夫」と考えてしまうと言うことであります。有名人がこのウイルスに感染して亡くなったと聞くと、少しずつ「他人ごとではない」との感覚を持つようになります。家族が感染すると、もう他人ごとではなくなります。最後には、自分が感染しないと、本当の怖さが分からないと言うことになり兼ねないのであります。そして、その怖さを知った時には、もう手遅れだったということにもなり兼ねないのであります。
主イエス・キリストの十字架で死なれた命の尊さを、私たちはどれくらい、自分のこととして受けとめることが出来ているでしょうか。本当は、自分自身が十字架に架けられて死なねばならなかったのです。もし、自分の身代わりとしてイエス様が十字架の上で死んでくださったと信じるのなら、その様に信じる自分自身の生活の仕方が変わるのではないでしょうか。この自分の命を大切にしながら生きねばならないと思うのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスの蔓延と言う現状によって、私たちは何を考え、どう行動しなければならないのでしょう。今、兎に角、感染しない・させないように、この神様から与えられた命を私たちは護らなければなりません。この命を護るために、今、この礼拝を捧げることが出来ない事態となっています。礼拝をお捧げ出来ないことで、深い悲しみの中にある兄弟姉妹がおられることと思います。
 しかし、神様を礼拝出来ない悲しさ・悔しさを一番理解し、共感してくださっておられる方がイエス様であります。私たちの命を護るために、涙を流し、霊に憤り、神様に願ってくださっておられる方が、イエス様なのであります。私たちが神様のために今一番しなければならないこと、それは、自分と他人も含めて、神様から預かっているこの尊い命を、感染しない・させないように、護ることであります。
 暫くの間、この命を護るために、どうかイエス様の執り成しと恵とによって、神様のご加護の下に、各家庭で持たれます礼拝が祝福されますようお祈りいたします。

説教者:平向倫明伝道師