狼が子羊と共に住む日

聖書 イザヤ書 11章1〜10節 | ルカによる福音書 1章26〜38節

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/

 その根からひとつの若枝が育ち/

 その上に主の霊がとどまる。」

この預言の前に、主なる神は庭師のように斧で枝を切り落とし、そびえ立つ木、高い木を倒されます。神の裁きによって王国は滅ぶというのです。でも、そこで終わるのではなく、不思議な仕方で、切り株から再び一つの新しい芽が出てきます。その上に、主の霊がとどまっている。彼は、主を知り、畏れ敬う霊に満たされている。来るべき真の王=メシアとは、そういうお方だと預言しています。

イザヤが、どういう状況下で、このメシア預言をしたのかについては、様々な見方があります。その一つ、これはエルサレム神殿での礼拝の際に、ここに書かれている通りに、実際にイザヤが説教した内容だったのでは、という見方があります。

イザヤの告げた神の言葉に耳を傾けようとしない、ヒゼキヤ王、そして民全体に失望する中で、それでも、真の王なるメシアについて、イザヤは恐れずに語り続けました。

主なる神を知り、畏れ敬う霊に満たされた王とは、どういうお方なのか。彼は、人間がよくやるように、自分に見えるものや自分が聞いている事で、物事を判断するのではない。イザヤは、人間的な計算で動く王のあり方を批判します。そして、主を畏れ、思慮深く考えることのできる知識を持つ、神と人間に喜ばれる王が、統治する世界を見ます。

 メシアは「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する」のです。

私たちは、なるほど、と思います。今の為政者たちに欠けているものだ。そういう王こそ、真の王だ。私たちもメシアを待ち望みたい。ここまでは、よいでしょう。しかし、問題は、その先です。

この霊に満たされた王が国々を統治する。すると、不思議なことが起こるのです。

「狼は小羊と共に宿り/

 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/

 小さい子供がそれらを導く。」

 私たちは、マリアと同じようにさせられます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。」

狼が小羊と共に住んでいる?思わず笑ってしまいます。おとぎ話か、子守唄のような、あまりに愛らしい、その光景に。

弱肉強食の世界が、ここでは姿を消します。普通、肉食動物の狼の前に、小羊がいるなら、次の瞬間には襲いかかっています。この場に、小さい子供がいたなら、その身に危険が迫っています。でも、そうはならない。

「わたしの聖なる山においては/

 なにものも害を加えず、滅ぼすこともない。」

どの命も損なわれることがなく、共に暮らし、共に眠ります。不思議な静けさがある。本当の平和のかたちがあります。

今、私たち人間社会でも「共生社会」の大切さが強調されています。けれども、イザヤの預言は、人間の救いだけが考えられているのではない。私たちが忘れかけているものを呼び覚まします。神のもとで、生きとし生けるものたちが共存するのです。神の望む平和とは、もっと大きなものとしてあることを知らせます。

確かに、現在の私たちは知識を持っている。人間が誕生する遥か昔から、食物連鎖という自然界の掟が変わらずにあること。地球の成り立ちや生物の進化は、今や、神なしで理解することができます。

けれども、本当に、そこで、終わっていいのか。人間には、結局、弱い者が虐げられるこの世界をよしとして、本当の平和をつくりだすことができないのだろうか。

預言者は、そこで悟っていました。人間だけではできない。しかし、神こそが、このままで、終わっていいはずはないと思っていると。神は、いまだ、何かをなさろうとしているのです。笑ってしまうような、大いなる喜びを、神は準備して待った。

「狼は小羊と共に宿り/

 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/

 小さい子供がそれらを導く。」

後のキリスト者たちは、このメシア預言について、イエス・キリストを指し示していると解釈してきました。キリストは、小さく弱い存在に最も近く寄り添うようにして来られました。本来、小さな羊は、犠牲となるものです。でも、神のおられるところでは、なにものも害を加えず、滅ぼすこともない世界が実現するのです。

私たちは、この主を信じて、神の国が広まっていくようにと、祈り願うキリスト者とされました。

この国では、キリスト者は、本当に小さな存在です。自分に与えられた信仰を、私たちは、人から物笑いにされることがあります。それでも、キリスト者たちは諦めずに、信仰を貫き通してきました。本当に心から笑い合う平和の喜びを大切にしたいからです。この信仰は、本来、誰にも邪魔されるものではありません。

聖書の言葉を通して、私たちは変えられます。小さな平和をつくりだす一人として、ここから出かけていきます。天使のお告げを受けたマリアが、急いで戸の向こうへと出かけ、喜びが確かに訪れているのを確認したように。クリスマスの奇跡が、本当に、この地に現れたように。この喜びが、いつしか、水が海を覆っているように、この大地全体が、主を知る知識で満たされていきますように。

(待降節第4主日礼拝 12月18日 片岡賢蔵伝道師)

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