すべての人の目が注がれる
聖書 民数記 9章15〜23節 | ルカによる福音書 4章16〜30節
教会には2つのかたちがあります。集まる教会と、散らされる教会です。今、主の日、私たちは集まって礼拝をしています。そして、日常的には、それぞれ散らされた場に出ていきます。ここにも見えないかたちで教会があるのです。
平日に教会がなくなるのではなく、見えない教会として、それぞれに神が共にいます。そして日曜日が来ると、私たちは集められ、見える教会が立ち上がります。だから、キリスト者は、どんなに孤独に見える時でも、たった一人ではありません。
コロナ禍で、そして様々な事情で、私たちは、礼拝堂に全員で揃って礼拝できないでいます。それでも、病院や施設、家庭において、それぞれの散らされた場で、信仰を守っている教会員がいます。散らされるところにも、聖徒の交わりが通っています。
今は離れたところにいる、あの人にも、神が働いておられるのだと、私たちは信仰を通して知らされることがある。今、苦しんでいる友の近くに、神が共におられる。そう祈ることができます。ここに、キリスト教信仰の特徴が、あるのではないでしょうか。ただ特定の場所にお参りして神様の恵みに与るのではないのです。
キリストを頭とするすべての肢体である聖徒の交わりがあるから、一人が苦しめば、すべての人が苦しみ、一人が喜べば、すべてで喜びがある。
ルカ福音書によれば、キリストは、ナザレで、まず礼拝する会堂から伝道を開始します。主イエスは、今の私たちの礼拝と同じように、聖書の御言葉を朗読し、福音を告げます。
「主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、 /目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
解放、回復、自由が告げられました。主イエスが、この地に来られて、主の恵みの年が始まった。すべての人の罪の赦しが語られたということです。そして、主イエスは座ります。すると、すべての人の目が、主イエスに注がれていた。映画のように光景が、ありありと浮かびます。会衆の目が注がれ続けている。
主がおられる、この空間を共にする緊張感があります。礼拝とは、御言葉を聞くことが、まず大切にされますが、見ること、目撃することが関係しています。主を見上げる私たちは、そこで、キリストから見られているからです。顔と顔とを合わせる。そうして、生きている神が、共におられることを確かめられます。主イエスは、この交わりがあるところに宣言をします。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
ところが、ここから大変な展開が起こった。礼拝する民は、怒りだした人々によって、暴徒化し、イエスを殺そうと崖まで連れ出します。きっかけは、こんな声でした。「この人はヨセフの子ではないか。」この声が神の臨在を切り裂きました。
預言者は、自分の故郷では歓迎されないとは、どういうことでしょうか。親しさ、親戚、家族の繋がりが、かえって人を見る目を曇らせるのです。目の前の人の働きを、近視眼的に見てしまう。主イエスの告げる恵みは、すべての人に注がれるのを目的としていたはずなのに、あたかも、この集会所に集う「すべての人」に恵みを限定してしまうのです。
カファルナウムで人々を癒されていたではないか。故郷では、それをせずにいる。自分たちにこそ、神の恵みが、まず現されて然るべきではないか。そんな風にして、私たちは、キリストの目的を小さくしてしまうのです。キリストは言います。
「ほかの町にも行かなければならない。」「すべての人に福音が告げられなければならない。」
主イエスが来られたのは、この地に、神から離れているような、すべての人々の目が神の方を向く、そういう礼拝する民をつくりだすことにありました。教会は、そのために仕えています。集まる教会と散らされる教会として。
主イエスは、私たちに思い起こしてほしいこととして、25節で「確かに言っておく」と強調して語ります。それは、預言者エリヤの時代とエリシャの時代に起こった神の恵みについてでした。旧約聖書の列王記に書かれた、この二つの場面に共通することがあります。
神に絶望する民から離れたところで、散らされたようなところにもかかわらず、「主は生きておられます」という声を聞くことです。ここに主が来られている。こんなわたしのところにまで、主なる神が、生きて働かれている。神の恵みは、私たち人間の見える範囲を、はるかに超越して起こることを畏れるということです。
そうして、福音は、イスラエルの人々だけでなく、ヨーロッパ、すべての人へと向かいます。私たちにとっては、こんな東の遠い国にまで、キリストの福音が宣べ伝えられることになりました。
この地で、私たちもまた、集まる教会と散らされる教会として、この福音宣教の運動に参与しています。すべての人の目が、主に向かって注がれる日が来る日まで。
(降誕節第5主日礼拝 1月22日 片岡賢蔵伝道師)
投稿者プロフィール
最新の投稿
礼拝説教2023年12月1日12月の主日礼拝の予定
礼拝説教2023年10月25日敬虔な大儲け
礼拝説教2023年10月25日11月の主日礼拝の予定
礼拝説教2023年9月20日10月の主日礼拝の予定